貴方はいつだって全てを壊す |
嫌いになれない貴方 第十話 |
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かたん――― 乾いた音を立てながらリョーマは木で作られた椅子へと腰かけた。 いつもは全く人気のない図書館も今は昼休みということもあるせいか、まばらに人影が室内に落ちている。 中間試験も近いこともあるのか。部活も三日前から全面的に休止期間に入っていた。それはリョーマが結局目覚めることのなかった、次の日から。 テスト前にできる最後の部活だというのに、日没に近い時間まで寝こけてしまっていた自分に嫌悪してしまったのだった。 流石に人がいるのに寝るわけにもいかず、手持ち無沙汰に貸し出しカードに指を滑らせて、ぼんやりとカウンターに座りながら、リョーマは視線をうろうろと手元に彷徨わせる。 普段は放課後に当たることが殆どなのだが、今日はたまたま休んだ当番の代わりに昼休みを頼まれてしまった。 その所為で今日は生徒会室へと顔を出してはいなかった。 急に頼まれたことなので、今日は行けないということを手塚には何も告げてはいない。 ここ数日、毎日邪魔していたので、心配しているかな、と少し申し訳なくなる。 連絡もしなかったこと、怒ってたりして。 ふと部活中に眉間に皺を寄せながら仁王立つ手塚の姿を思い浮かべてしまい、リョーマはくすりと笑みを零した。 生徒会室での穏やかな態度が嘘のように、コートの上での手塚は厳しかった。 けれど、アノ人に囚われてしまう前、自分の存在理由はテニスでしかないのだとがむしゃらに進んでいた頃に、戻りたいと時折り願ってしまうリョーマにとって、手塚のテニスにおける厳しさはなくてはならないものだった。 過去を懐かしむ気持ちとはまた違うのだろうが、こんな後ろ向きな自分は嫌でしかたない。 けれど、黒い澱のような想いが胸の奥にとどまり続ける限り、そこから先に進むことは叶わなかった。 苦い笑みの形に刻んでいた口元を隠すように覆った手は、知らない間に祈りの形に握りしめられていた。 それに気づいてリョーマは両手を解きながら乾いた笑みを零す。 いったい誰に祈るというのか。想いの行き着く果てなど、分かりきっていること。 暗い表情を無理に消した無表情で、時計を見やるとあと十数分もすれば午後の授業が始まる時間だった。 そろそろ閉める準備をしなければと手元に散らばったカードを乱雑にかき集め、穏やかな風が入ってくる窓を順に閉めていく。 あらかたの整理を終えてから静かな図書室を見渡すと、あれほどいたはずの人影はいつのまにか引いていた。 これならもう閉めちゃってもいいかな、と考えていると奥まった書棚の影に人がいるのに気づいて、仕方なく、まだいたのかという表情を浮かべながらも大人しくカウンターに戻った。 ふいにひらりと書棚の脇からその人影が踊り出て、カウンターに向かって歩いてきたのが視界に入った。 いつだって彼の姿を捕えるとこの胸がうるさくはねる。 思わず、小さくその名前を呟いた。 「・・・不二先輩」 片手に持つ本を肩に置いて優雅に微笑む姿が近づくに連れて心臓が速い音を立て始める。 ここのところ部活自体がないのだが、例えあったとしても彼と話をするような機会はなかった。手塚や菊丸とは違って、こちらから話し掛けることのない限り、それは叶わないのだから。 身じろぎもできないまま凝視していると、彼は腰を折るように体を屈めて手にもっていた本をカウンターにのせた。 古びた色を光らせる木目がことん、と乾いた音を立てるのを耳にしたリョーマは慌てて脇に備え付けられた棚から3年のカードを探し始める。 俯いたままの視界にちらりと入った綺麗な指先に目にして心臓がことりと跳ねた。 すんなりと伸びた白く長い指には、何も飾りはなかった。 彼女を飾っていたようなシンプルだけれども品の良い綺麗な銀の指輪は。 お揃いではなかったのか、という思いがよぎりながらも、探していた名前がカードの先頭にあるのを見つけて取り出す。 「・・・コレに本のタイトルを書いてください」 顔も上げずにカードを渡すと、リョーマは閉じたばかりのノートを開き、新しい頁に手馴れた様子で記帳していく。 優美な姿勢でカウンターにもたれかかったまま不二は興味深そうな顔でリョーマの一連の作業を眺めていたが、リョーマが決して視線を合わそうとしないのでようやく缶に立てられた鉛筆を取りカードに記入し始める。 カリカリとペンが紙をひっかく無機質な音だけが部屋を満たしていたが、ふいに不二の柔らかな声音がその静寂を破った。 かたり、と音を立てて手にしていた鉛筆を元の場所に戻した後に、優雅な仕種で組んだ両手に顎を乗せ、にっこりと微笑んで。 「・・・ねぇ、越前。君って、どっちと付き合っているの?」 穏やかな声の調子の中に潜んだからかうような声音と、その内容にリョーマは俯いたまま眉をひそめる。 付き合う?どっち?何を言っているのだろうか。 怪訝そうなリョーマを気にも止めず、尚も不二は面白そうな表情を浮かべてからかうように微笑む。 「英二の方かな?最近ますます仲が良くなったみたいだし。この前はとっておきの場所でいっしょにお昼寝してたもんね?・・・膝枕までしてあげて」 不二の言葉を聞いた途端、リョーマは俯いた顔をバッと上げた。 頭の中は真っ白で、何も言葉が出てこないまま。まさかコノ人に見られていたなんて。 この部屋に来てから初めて真正面から見た不二の笑顔はあいかわらず綺麗で甘く、とても優美だった。 いつもだったら、甘くて、けれど痛くてたまらない疼きに耐えられなくて、無関心な顔を装い自然に見えるように視線を外すのに。 けれど、今はそれすらできなかった。 何もやましいことはしていないはずなのに、愉快そうでいて何故か非難の色がちらちらと見え隠れする不二の視線に何だかいたたまれないような気持ちでリョーマはただ身を固くするしかない。 「其れとも・・・手塚」 そこで一旦言葉を区切って、カウンター越しに不二は笑いながらリョーマの固い表情をじっと見つめる。 何も言わず身じろぎすらしないリョーマは今、強ばった顔で不二を凝視している。 言葉は返ってこないが、ようやくリョーマの視線を自分に向けたことに満足したような表情で不二はゆったりと言葉を続ける。 「手塚ともなんだか親密だよね?・・・二人っきりで生徒会室で一緒に過ごすくらいなんだから」 全てを言おうとはしなかったがその含んだ口調に手塚の膝枕で眠りを貪っていた自分の姿を不二に見られたことを知ってリョーマは更に全身を強ばらせた。 別に手塚とも菊丸とだって、彼らとの間に恋愛感情が存在しているわけではない。ただの先輩後輩でしかないはず。 けれど、先輩後輩という関係以上の、言葉にできない穏やかな時間を与えてくれた彼らにどこかで心の安定を求めていたのも事実だった。 それが不二が言った親密さに結びついていたように見えたとしたら。 からかうような視線から逃れるように微かに震える瞼をそっと伏せて視線を外した。 「ねぇ?越前・・・・・・正直なところ、どうなのかな?」 面白がった口調で尚も不二は、黙ったまま答えようとしないリョーマに、優しげに笑って問い掛ける。 ただの興味本位なのだとでも言いたげな、からかいの色を帯びながら、ただ笑って。 心が静かに冷えていき、ぱりぱりと音を立てて凍て付く。 きっとコノ人は自分達の不明瞭な関係を知って疼いた好奇心を満足させたいのだ、と。 ただ面白がって、親密だけれども明確な付き合いが見えない自分達の関係を詮索したいのだ、と。 ただの、好奇心。きっとそれだけなのだ。 その事実に指先までもが冷たくなる気がした。 重たい睫毛をふるりと震わせながらも、強い視線を保とうと努力する。 「…不二先輩には、関係ないコトです」 カウンターの下で見えないように冷たくなった指先を握り締め、震えないように慎重に言葉を紡ぐ。 そうだ、先輩には関係のないことなのに。 ・・・ただ面白がって聞いてくる、なんて。 「そう?…あれ?僕の聞き間違いだったのかな…」 問いかける素振りで、けれど確信の色を浮かべた瞳で不二が迫る。 リョーマはぎゅっと震える唇をかみしめ、穏やかに微笑む不二を睨みつけた。 どうしようもない絶望の予感がただただ背を震す。 神様など存在しない。 そして願いは届かない。 綺麗なアナタには、綺麗な彼女。そして綺麗な彼女の指には綺麗な銀の飾りが光る。 アナタの想いの証が。 そしてアナタは。なんとも思っていないのだ、と。 君はただの後輩なんだよ、と綺麗に笑う。 それなのに。 どうして、今さら眠らせようと必死な想いを揺さぶり起こそうとするの? 噛み締めた唇が小刻みに揺れる。 理不尽な疑問を簡単に口に出す穏やかな風貌を持ったこの人に、あなたはただの先輩だ、と叩き付けたかった。 けれど今、口を開いたら、胸の奥の想いも一緒に出てきてしまいそうで。 ただ、必死に唇を噛んで睨み返す。もう何も聞きたくはない。 「・・・君は、僕を好きだと、言ったよね?」 ―――それでも紡ぐ言葉を止めようとはしないのだ。 「あの時。緑が綺麗な裏庭で」 ゆっくりと綺麗な笑みが近づく。 「君は言ったよね?僕を好きだと」 言いたい言葉が、けれど決して言えない言葉だけが、思考を埋め尽くす。 「それなのに、もう他の男?」 冷たい笑みが口元に浮かぶのが間近で見えた。 きっと自分はコノ人のこういう顔が見たかった。嘘の笑顔なんかじゃない本当の顔を。 けれど、こんな顔が見たかった訳では、なかった。 「・・・君は、僕じゃなくても。手塚でも、英二でも。・・・誰でもよかったんじゃないの?」 嘲りを含ませた笑みに、視界が怒りで真っ赤に染まって。 それと同時に真っ青な色が一粒、ぽとりと心に落ちて広がる。 神様なんていやしないことは知っていた。けれど。それでも。 想いが通じてほしいと願って。 そしてそれは決して叶うことのない願いだとアノ時貴方は笑って告げた。 だから二度と開くことのないよう、深く沈ませようとしたのに。 それなのに、それすらも、押し殺そうとした想いすらもアナタは否定したいの? 『僕じゃなくても、手塚でも、英二でも誰でもよかったんじゃないの』 冷たい言葉が思考の海で暗くリフレインする。暗い亜麻色の瞳が全身を凍りつかせる。 ―――部長でも。英二センパイでもなくて。貴方だったから。 だから――― 怒りなのか哀しみなのか分からない、胸の奥のかたまりが何処か遠い場所で零れ落ちた。 気づけば、するすると頬を冷たいものが滑り落ちていた。 不二が目を大きく見開く。 はっとそれに気づいて、慌ててリョーマはごしごしと袖で拭いとろうとする。 見られたくは、なかった。誰にも。彼に、も。 こんな弱い自分は。涙を流す自分の姿は。決して。 必死に止めようとするも一旦堰を切ったように流れるのをやめようとしない。 水が張った膜越しに不二の顔がおぼろげに映る。 突然泣き出してしまった自分に驚いているのかと思ったが、そのどこか食い入るような表情に呼吸が止まった。 観察するような、じっくりと自分の泣き顔を見つめる彼の笑みの全てを消した顔を、確かに見た。 笑っては、いない顔。 …それでも、何より綺麗な貴方を。 「…僕は、君のことを何とも想っていない、とあの時、言った、よね?」 言葉を選ぶようにゆっくりと切り出した不二は、自分の涙腺だけでなく心までもを壊そうとする。 そんなの知ってる。わざわざ、同じことをまた言われなくても分かってるのに。繰り返して言う必要などなかった。 念を押すような不二の言葉に息を呑んだ。 そこまで自分を、自分の気持ちを否定したいの。 まだ何かを言おうとする不二にこれ以上の打撃を与えてほしくなくて。 自分が泣き出すのを待っていたような、暗くてでも綺麗なその眼差しをもう見てはいたくなくて。 がたんと椅子を跳ね除けるように立ち上がって、リョーマは図書館を勢いよく飛び出した。 後ろから引き止める不二の声など その耳には聞こえるはずもなかった――― |
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