ただ
笑っていてくれさえいれば
それでいい



嫌いになれない貴方  第九話 




今日もリョーマは手塚の元で安心しきった猫のように眠る。


手塚は溜め息を一つつくと左手に収まったペンを書類から離し、飴色に光る椅子の手摺をペンで軽く叩いた。
こつこつと乾いた音が静まりかえった生徒会室に響くのをぼんやり聞きながら、手塚の意識はすでに書類から離れていた。

ここ数日のリョーマの様子はそれほど悪いものではなかったはず。
それだけに先日、結局部活が終わるまで一度も目を覚まさなかったリョーマのことが気にかかって仕方がない。
その日の昼間、手塚の元へリョーマが訪れたとき、彼におかしなところは見られなかったように思う。
けれど、手塚の腕の中で安心したような表情で眠るリョーマから伝わる低い体温と青褪めた顔や色のない唇が、調子が悪いといった菊丸の言葉が嘘ではないことを示していた。

消毒薬の匂いが漂う保健室で立ち竦んだまま手塚はただ幼い寝顔を眺めるしかなかった。



少し前のことになるが。あの日、手塚がリョーマを抱きしめたあの日から、リョーマは二度と手塚のいるこの生徒会室へ足を運ばないかもしれない、と手塚は不安に感じていた。
けれど次の日も、何事もなかったかのようにリョーマは生徒会室に顔を出した。
ひょこっと扉から顔を出したリョーマを見て、手塚はひどく安心したのを覚えている。

少しだけ、変化もあったのだ。

それは手塚にとって、とても喜ばしい変化で。
どこか警戒していたようにも見えたリョーマからそれが消えたのだ。まるで懐かなかった野良猫が居ついたようなそんな感覚で。
しばらくは手塚のほうから誘ってからやっと側に寄ってきて、それでも少し距離をおいたように膝の上で眠っていたのに、今では自分から擦り寄ってきて当然のように膝の上で丸くなるリョーマを見て、口元を緩めるのが常だった。

くぅくぅと寝息を立てる小さな姿は非常に愛らしく、手塚は益々いとおしい気持ちに駆られる。
その気持ちにまかせるまま優しい視線を向けながら、慈しむように優しく何度も髪を撫でていた。


――コンコン

ふいに静寂を破るようにノックの音が響いたかと思うと扉が開き、セーラー服を纏った少女が姿を現した。

「あら?手塚君いたのね。…その子は?」
「あぁ、部活の後輩なんだがな。…最近眠れないと言うものだから此処を提供している」
「…まぁ。そうなの」

目の前の光景に現れた少女はひどく驚いた様子を見せたものの、その説明を聞いて案外冷たいようで何処か面倒見のよい手塚を思い出すかのように曖昧に微笑んだ。

手塚の、冷淡にも感じられる眼差しは意外と物事や周囲の人物をよく見ているようで、何か困ったことがあると誰よりも早く異変に気づき、そして本人がどうしようにもできないと云う段階になると、さっと手を差し伸べて助ける様を今まで何度も見てきた。
そんな手塚は生徒会長として適任とも云える。補佐する役目の筈な自分も、実際今まで何回も助けられたのだから。
テニス部の部長も兼任している彼が、部活動の後輩にも気を配らない筈が無かった。きっと、過去に自分が見てきたように手を差し伸べるに違いなくて。

まだ目の前の光景に違和感を感じてはいたが、なんとなく納得するように少女は、まぁ、人肌って安心するものね、と思案深げに相槌をついた。

「…中学生になったと云ってもまだまだ子どもだからな。斎藤はどうして此処に?」
「私は今日の放課後に出さなきゃならない書類があと少しだけ残ってるのよ。さっさと終わらしちゃおうと思って」

綺麗な微笑みを浮かべて答える彼女に、手塚は不思議そうな顔で再度目をやった。

「不二はどうしたんだ」


才気と美貌を合わせ持つ青学のマドンナと誉れ高い、この副会長は、あの不二の彼女としても有名だった。

その穏やかな微笑みと優しい物腰は好感を与えるもので。外面だけでなく、その内面も素晴らしいと評判の彼女は、不二には及ばないが当然ファンも多かった。
ほんの一ヶ月前に二人が付き合いだしたと聞き、泣いた者は数知れないという。
当然、生徒会長として彼女の近くにいた手塚も知っていた。
確か、付き合いだしてからは二人は必ず一緒に昼食を取っていたはずだが。

「不二君なら先生に呼ばれてて用事があるの。でも、すぐ終わるって言ってたから多分此処に迎えにきてくれるわ」
「…そうか」

無愛想ながらも言葉を返した手塚は、それでもう興味を失ったかのようにソファの端に置いてあった数枚の書類を手に取り目を通し始めた。
手塚の愛想のない態度に肩をすくめつつ、いつものことと少女も机に座り書類を広げて何やら書き始める。
しばらく部屋にはサラサラとペンを走らせる音と、紙をめくる乾いた音しか聞こえなくなった。


「…ん、ぅ…」

ふいにリョーマがくぐもった声を発しながら寝返りをうって手塚に擦り寄り、身体を丸めた。
微笑ましいリョーマの幼い寝姿を目にして、斎藤は紙の上を走らせていたペンを止め、目を細めた。

「ふふ。ホント可愛らしいわね。まるでちっちゃな猫みたい。きっと温もりが恋しいのよ」
「あぁ」

肯定の言葉ともとれる返事を曖昧に返し、手塚もまた、リョーマを見る。

「…ぅ…ん」

何か悪い夢でも見てるのか、また一つ呻き声を上げて眉をひそめながら眠るリョーマを安心させるかのように手塚は優しく髪を撫でる。
すると温かい手の感触を感じたのか「…」と小さく呟いて、すー、と規則正しい微かな寝息に戻ったのが聞こえた。
今度は気持ちよさそうに眠り始めた幼い寝顔を見つめながら手塚は尚も優しく撫で続ける。


「…何だかうらやましいわ」

ソファでの光景を、羨望とも憧憬ともとれる眼差しで見やりながら少女がぽつりと呟く。
悲しそうにも聞こえる響きに手塚に何事かという疑問が生じるが、意図して意識していない振りをして膝の上の温もりをただ眺めた。
彼女は手塚の話を聞いていないような態度に安心したのか独白のように言葉を訥々と紡ぎだした。

「最近ね、不二君の考えることが分からないのよ」


誰かに自分の気持ちを吐露したかったのかもしれない。けれど友達にも言えなくて。
それが女生徒の憧れの的である不二と付き合っているという遠慮からか、それとも自分の思い違いであってほしいと云う願望からかは分からない。
すぅっと息を小さく吸うと儚い笑みを浮かべ首を振ってから静かに言葉を続ける。

「…勿論、今までもね、彼のことが分かるっていう訳じゃなかったんだけど、最近特に。別に彼の様子が特別オカシイってことでもないんだけど」

最近の不二の穏やかな笑みを思い浮かべて暗い表情で顔を俯けた。
貴公子然とした、其の微笑みに甘い気持ちになるのはいつものことだった。
けれど、うっとりとするような其の笑みの中に何か違和感を感じ始めたのは、つい先日のこと。
もともとミステリアスなところのある彼をきちんと理解していたわけではないが、それでも一緒に居るときは此方に意識をきちんと傾けているかぐらいは感じ取れていた。
それなのに最近は、側に居るというのに彼の意識がどこかに飛んでいるようだった。其れは微かな違和感。
けれど確かな予感で。
知らず彼との間に距離ができたみたいで不安になる。そうなると彼の優しい笑みも何だか知らない人のように感じるから余計にそう思えるのか。


だから今、目の前で仲睦まじそうな二人が羨ましい気持ちに襲われた。まるで親猫と仔猫のような姿に。
それは自分達のような恋人という関係ではなかったが、自分達よりも信頼しきった親密な関係を作り上げているような気さえして。
思えば不二と自分は甘えるということをしてこなかったかもしれない。
彼は優しいけれど一定以上に自分を近寄らせないような雰囲気を持っていた。
それでも自分は満足していたはずなのだが。

最近オカシイのは何も不二だけではないのかもしれない。


目の前で少女が暗い表情で黙って考え込むのを見かねて、手塚は低く声をかける。

「…不二は難しい男だからな。斎藤も大変だろうが、」

――コンコン
手塚の言葉を遮るように響くノックの音を聞いて、視線がドアへと集まった。

「ちょっと失礼するよ。斎藤、いるかな」

穏やかな笑みを秀麗な口元に浮かべながら不二が扉から姿を現した。
そして半身を優雅に入り込ませ、机に座る目当ての少女を見つけて、にこりと笑いかける。
その目線は次に部屋の奥に備えられたソファの人影へと移った。
其処にはテニス部でよく見知った二人の姿。けれど決して部活動では見られない光景があった。
不二は瞬間目を見開いてから、にこりと笑う。

「…へぇ、本当に随分と仲良くなったみたいじゃない」

笑みの形に歪められる口元。
いつものように笑っているはずなのに、少女は又違和感を覚える。
それは最近生じるものと、どこか似通った違和感。
瞬間沸き起こる不安を拭うように口を開き、恋人に笑いかける。

「テニス部の後輩って聞いたわよ。それなら不二君も彼のこと知っているんでしょう?」

そう言って、今だ深い眠りに落ちながら手塚の膝の上で動かない小さな一年生を見る。
人形のように整った顔で眠る彼はまるで息をしていないようにも見えた。
けれど、何か夢を見ているのか時おりぴくりと動く瞼や、微かに聞こえる寝息が、確かに息をしていていることを証明していた。たまに洩れる小さな寝言も。今も何か口を動かしている。

「ふふ、一年生だからかしら、小さくてとっても可愛らしいわね。彼、テニス部でもこうなの?」

先輩達にもきっと可愛がられてるわね、と不二に笑いかけるが返事がない。
不思議に思い、目線を不二に戻すと部屋に入ってきたときと同じ位置でソファの上を凝視したままで自分の言ったことを聞いていなかったようだ。

「…不二君?」

「…あぁ、そうだね。…英二なんか特にすごいかな。嫌がられてるくらいだよ」

ねぇ、手塚?とにこりと笑った不二に少女も曖昧に微笑んだ。
手塚は素知らぬ顔で答える。

「ああ、菊丸も懲りるということを知らないからな」
「…もう、二人とも菊丸君が聞いたら可哀相じゃないの」

そして笑い合う。

「それじゃ、手塚君。私達そろそろ行くわね」
「手塚。ちゃんと越前を起こすんだよ?」
「言われなくても分かっている」


パタンと閉められた扉を手塚はじっと見ていたが、目線をずらして壁に掛けられた木製の時計を確認した。あと20分もすれば予鈴が鳴る。不二達には随分短い逢瀬となってしまうが、まだ暫くは膝の上の温もりを起こさずにすむことに安堵する。


それにしても。
近くで交わされた話し声にもリョーマが起きなかったことに手塚は眉を顰めた。
よほど眠りが深いのか。ちゃんと家で眠れていないということなのだろうか。
それは眠れない理由があるということに他ならなかった。この、眠りを酷く好む子どもが其れを手放すくらいの何か大きな理由が。



まだ、お前は、不二を想いつづけるのか。



簡単に忘れられるようなものではないと分かっている。実際、自分がそうなのだから。
鮮やかに視界を奪った少年への未練は多分に残っている。けれど何より大事なことは彼が笑っているということだけだから。たとえ、其れが自分ではなくても。
誰がそうさせるかは問題ではなく、ただ、彼が元気な姿でコートを翔けることを望むだけだ。


先ほど此方を見つめた不二の眼差しを思い出す。
どこかいつもの彼とは違う冷たい光を宿した瞳を。
それは先日コートの側で見せた瞳と似通ったものを感じさせる光。
あの男が笑顔の奥で何を考えているのか予測することは難しかったが嫌な予感だけが胸を埋め尽くした。


手塚は重い溜め息を一つ吐くと膝の上の小さな温もりをそっと抱きしめるように身をかがめる。




どうか、この愛しい存在が悲しむことのないように
ただ、祈るしかなかった





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