---― きっと、見たいのは、




嫌いになれない貴方  第八話 



半ば駆けるように向かった部室には全く人気がなかった。少し早く来過ぎたようだった。

リョーマは自分のロッカーの前まで進むとずっしりと肩に食い込むバッグを下ろしてユニフォームを取り出した。
青も眩いそれに手早く着替えると、赤いラケットのグリップを握りしめ、ゆっくりと息を吐く。
大丈夫。もう何ともない。
口の中でそう小さく呟いて、ガットの目をかり、と整えるように引っ掻いた。
深呼吸を繰り返していると、ドアが開く音が背後で聞こえて誰か来たのかと振り向いた。

「越前!お前無理すんなよっ」

堀尾が姿を現したと思うと、教室で具合の悪そうな様子を見せたリョーマに心配そうな声をかけてくる。
後ろからついて入ってきた加藤も堀尾から聞いたのか心配そうな顔をしていた。
いつも一緒に来るはずの水野は日直のため、今は姿は見えない。

「だから、何ともないって」

素っ気無く言葉を返し、リョーマが部室を出て行こうとしたとき、飛び込んできた人影とぶつかりそうになり慌てて身を引いた。

「あっぶねー!すまんにゃー、っておちび!?」
「…チッース」
「あ、こんちは。って、まてまてっ!!」

軽く挨拶をしてから帽子を深く被りなおして外に出ようとするリョーマの襟首を菊丸がぐいっと引く。
自然と首を締められて苦しそうに睨むリョーマの顔を、菊丸はひょいと屈みこんで心配そうに覗き込んだ。

「おちび、ちょい顔色悪くない?」
「…そんなことないっす」
「越前!お前具合悪いんだろっ?無理すんなって!」

背後で叫ぶ堀尾に舌打ちをして、リョーマは下を向いて顔を隠す。

「気のせいデス」
「でも、そういえばリョーマ君、ここのところあまり調子がよさそうじゃなかったよね」
「…それこそ気のせい」

加藤の言葉に、よく見ていたなと驚いたが何でもない顔を装って返した。
ふむ、とリョーマの顔を見下ろしていた菊丸だったが、おちび、ちょっと待っててと声を掛けると急いで着替え始める。
流石に先輩の言うことをあからさまに無視するわけにもいかず、所在無さげにリョーマがドアの近くで立ち竦んでいると、ほんの十数秒でジャージを身に纏った菊丸が、ラケットを持つ反対の手でリョーマの右手を握った。
温かい手の感触に驚いて繋がれた手をじっと見つめるリョーマを、引っ張って出て行きながら菊丸が後ろで黙ったままの堀尾たちを振り返る。


「わりーんだけど。今日はコートの準備、おちび免除してやってもらっていいかにゃ?ほんじゃ頼んだっ!」
「英二先輩っ?」

慌てた声をあげるリョーマを気にもとめず、菊丸がぐいぐい引っ張って歩き出す。



そのまま部室の裏手へと回ると菊丸は緑が生い茂る大きな樹の根元にどさりと音を立てて座り込んだ。
手が握られているせいでリョーマもつられて地面に足をついてしまう。

「ちょっとエージ先輩!いきなり何なんスか!」
「まぁいいから」

楽しげな表情でリョーマを根元にぐいと押し付けると、菊丸はごろりと横になる。

「えーじ先輩っ」
「いいからいいから」

気持ち良さそうに目を閉じる菊丸の頭はリョーマの腿の上に乗っていた。
いったい、これは何だというのか。この人が何をしたいのか分からない。
ハーフパンツ越しに感じる頭の重みに目を白黒させるリョーマに、のんびりと菊丸は答える。

「昨日さ、新作のゲームが出たじゃん?」
「…は?」
「それが中々むんずかしっくてさー。気づいたら朝だったってわけよ」
「はぁ」

それがどうしたと言わんばかりの表情を浮かべるリョーマに目を閉じたままの菊丸はうんと伸びをして寛いだ様子を見せた。
自分の膝の上で今にも眠りそうな菊丸に、リョーマが慌てて次の言葉を促す。

「…そんで全然寝てにゃいってわけ!まださー、部活が始まるまで時間あるじゃん?だから。おちび、膝貸してね?」

そう言うとふわと大きく欠伸をして菊丸は早くも寝息を立て始めてしまった。
深く眠りに落ちる前に、時間がきたら起こしてね、とリョーマに言うのも忘れずに。


意識がなくなったせいで重くなっていく菊丸の頭を自分の膝に感じつつ、リョーマは気持ち良さそうに寝息を立てる菊丸を困ったような表情を浮かべながら見つめるしかなくなってしまった。
足を伸ばしているおかげでそれほど苦痛には感じなかったが、それでもこの体勢は少しばかりいただけないと眉をしかめる。
けれど気持ち良さそうに眠る彼を無理やり起こすほど非情にも冷淡にもなれなくて。
困ったような顔でじっと身をすくめていたリョーマだったが、はぁと諦めたようにひとつ息を洩らした。


あんまり、このいわゆる膝枕、という体勢は歓迎できるものではなかったが。
自分もいつも手塚にやってもらっているのでそうも強く拒否できないという弱みもどこかあって。
それに、身を丸めたように眠る菊丸の姿はどこか飼い猫を彷彿とさせるもので、不思議と違和感はなかった。
ふわふわと風に吹かれる赤味がかった髪の毛も、まるで猫の毛みたいで、好奇心に駆られて手を伸ばす。
普段ぴんぴんと撥ねている髪の毛は意外にも柔らかくて、ますます猫みたいだとリョーマは知らずに微笑んだ。
例えるなら、菊丸は大きな猫だった。


その自分の考えは大体の人が賛同してくれるはずで。
いつもいつも足音も立てずに後ろから忍び寄られて思いきり背中に圧し掛かってきて無邪気な顔で笑う。
可愛いものが大好きだ!と公言して憚らないこの二つ年上の先輩に構われるのはいつものこと。自分に『可愛い』という形容詞は非常に腑に落ちないのだが、どうやら入部当初から気に入られていたようで、事あるごとに「おちびちゃん、かわいいーっv」と引っ付かれた。
正直、自分より数段大きな身体に抱きこまれるのは、暑苦しいことこの上なかったし、端的に言うならば、ウザイの一言でしか思っていなかったけれど。


けれど、図書室や、部活中、校内で会ったとき、それから今だって、菊丸は意外な繊細さを見せるから。
何も考えていないような素振りで、菊丸は自分を気づかってくれる。
例えば、試合で負けて悔しいとき、気持ちが落ち込んだとき。
それから少しだけ具合が悪いとき。例えば今みたいに。


無邪気そうな笑顔の下に持ち合わせている優しさを気づかせないように振舞う菊丸に温かい気持ちに包まれて目を瞑る。
頬を優しく撫でる初夏の風もひどく気持ちが良かった。
身体を後ろの太い幹に持たれかからせると、力を抜く。
菊丸がお願いと言うより寧ろ先輩として命令してくれたおかげで、一年生がしなければならないコートの準備をする必要もなかった。


左手をかざして木々の隙間から差し込む陽光に目を細めるとリョーマは小さく苦笑をもらす。
あんなにラケットを握りたいと強く願っていた気持ちは今やどこかにいってしまったようだった。
たぶんそれは気のせいでもなんでもなく、規則正しい呼吸を伝えてくる膝の上の先輩のおかげ。
寝息とともに上下する胸が胎動のリズムを感じさせてくれて、不思議と穏やかな気持ちになる。
どこか自分より速いようなリズムは、もしかしたら菊丸は猫だからしれない、と馬鹿な事を考えて笑いをこぼす。
カルピンの呼吸のリズムは非常に速いペースを刻むが、菊丸はそれほどではないのだから。


ふわふわと気持ちのよい風に揺られてどうでもよいことを考えているうちにリョーマも次第に眠くなってしまって、気を引き締めていようと身を正すが、それもあまり効果はなくて。
薄れつつある意識の中で何かが視界を掠めたが、それが何かに知る前にリョーマは眠りの淵へと誘い込まれてしまい、結局知ることはなかった。







「あれ、英二は?」

部室に入ってきた不二は着替えをする人ごみの中を見渡すように自分のロッカーに近づいていきながら、先に教室から出て行ったはずのクラスメートの姿が見えないことに疑問の声を出す。
途中通ってきたコートにも菊丸の姿はなかったし、何より彼がそこにいるはずもないことを不二はしっかりと知っていた。
たとえ着替え終わったとしても何だかんだ言いながら、だらだらと部室で過ごしてから、ぎりぎりの時間にコートに立つことの多い菊丸がまだ開始時間には早いこの時間にコートにいるはずもなかった。
それでも、最近はリョーマに付き合うように早い時間からコートで動く菊丸の姿を目にしていたが、その目立つ二人組を見なかったので、菊丸はまだ部室にいるものと思っていたのだが。

困った、とでも言うようにひらりと手の中の紙を振って不二が周りを見渡していると、乾が眼鏡をきらりと光らせながら問い掛けた。
「菊丸に何か用でもあるのか?」
それに不二は肩をすくめながらプリントをひらひらと振るようにして見せる。

「英二ったら、今日締め切りの進路希望届を出してなかったみたいで。カンカンに怒った先生から僕が言付かってきたというわけ」

困ったね、英二ったらどこに言ったんだろう、と心底は困っていないような顔で呟く不二に、乾は思案するように黙ってからノートを開くまでもなく答える。

「菊丸の鞄はあるんだから一旦部室には来ている筈だ。制服もロッカーにあるしな。いるとしたら菊丸お気に入りのあの場所じゃないか?」
「…あぁ。あそこ、ね。ありがと、乾」

分かったというように頷くと、ひらりと身を翻して不二は素早く部室から姿を消した。あの偏屈な教師に怒られるのは英二一人で十分だと考えながら。

「あ」

引き止めるように低く声を洩らした乾に当然不二は気づかない。
乾は、ぽりと頭を掻くとまぁいいか、と眼鏡に手をやった。
越前も一緒にいる確率100%なんだが。何しろ直接1年から聞いた話なのだから。
けれど、わざわざ引き止めてまで言うことでもないか、と体をロッカーの方へ向けた。



手の中の紙がぱたぱたと音を立てるのを聞きながら不二は急ぎ足で部室の裏へと向かう。
自分はまだ着替えてもいないのだから、菊丸を見つけて早く部室へ戻らなければならない。
この、まだ暑くならない初夏の時期と夏が過ぎた秋頃によく菊丸が好んで寝転んでいた場所は仲の良い者なら大抵知っていた。
大きな樹が覆い被さるように日陰を作るその場所はごろりと寝転ぶのに丁度良い場所。
案の定、大きな樹の根元に人影を見つけることが出来て、安堵の息を洩らしながら不二は歩調を弛めた。
けれど近づくにつれ、その影がひとつではないことに気づく。

少しだけ、どくりと心臓が早まるのが分かった。


足元でさわりと踏みしめられる青葉の感触を感じながら不二は樹の側で二人を見下ろす。
その表情は巨木の覆い重なるような影のせいで、見えない。
穏やかに眠っている菊丸とリョーマを、腰に手を当てた姿勢で見つめていた不二がその口元を隠すようにプリントを持ち直した拍子にぱらりと乾いた音がたつ。
鋭敏にもそれを聞きつけたのか、眠っていたはずの菊丸がぱちりと目を開き、気配に鋭いケモノのような視線をざっと不二に向けた。


「…なんだ、不二か」
つまらなそうにそう呟くと猫のように大きく伸びをして、菊丸はリョーマの膝からゆっくりとしなやかに上半身を起こす。
「…なんだ、じゃないよ英二。はい、これ」
不二はその表情を覆い隠していたプリントを菊丸に手渡すといつもの笑みをうっすらと浮かべた。
「先生、カンカンに怒ってたよ?すぐに提出に来い、ってさ。こんなとこで寝てる場合じゃないんじゃない?」
しかも越前の膝で、とからかうように微笑む不二の目はどこか笑っていない。
ちらりと菊丸はそんな不二の表情を仰ぎ見ながらプリントを受け取って、それに目線を落としながら、しまった、というように頭をぼりぼりと掻く。
いつものように騒ぎ立てない菊丸を不思議に思いながら、まだ眠ったままのリョーマに気づいた不二は、あぁそうか、と心の中で呟いた。

そうか、越前のためか。英二は越前を起こしたくないんだ。


鬱蒼とした笑みを一瞬浮かべた後、不二はしきりに、しまったにゃーとぼやいたままの菊丸に目線を戻して笑いかけた。

「早く行ったら?今なら、まだ少し説教で済むと思うけど。ほんの数十分のね」
「あー、…ハイ」

日頃の所業も相まってきっとねちねちとやられるだろう教師の小言にうんざりした顔を見せた後、決心したように素早く菊丸は立ち上がる。
けれどリョーマが気になるのか、ちらりと目線を落としたまま、動こうとはしなかった。

「越前なら僕がちゃんと起こしておくけど」
「あー…、おちびさ。ちょっぴし具合悪いみたいなんだよね。そんで無理やりココで大人しくさせてたんだけど」

せっかく眠ったのだからできればあまり起こしたくはないと顔色を濁して暗に告げる菊丸に、不二は、つ、と眉を顰める。具合が悪い?

「…それならますます此処で寝かしておくわけにも行かないんじゃない?」

気持ちのよい風は吹いているが、所詮は外だ。木に背中をもたれたままの姿勢も身体には良いと言う訳にもいかないだろう。
体に被せる布団もここには当然ない。

「そうだよにゃー。…よし!」

力んだように呟いた菊丸がリョーマの身体の下に両腕を入れ、ぐいと持ち上げた。
あまりにも軽々と上がった小さな体に内心驚いて、菊丸は今だ目を閉じたままのリョーマの顔を見る。
柔らかな身体は全く重さを感じさせない。ちゃんと食ってきちんと寝ているのか、と眉をひそめながら菊丸は不二を振り返った。
後ろでじっと佇んだままの不二に、菊丸は手の中でくしゃくしゃになりかけたプリントをぐいと押し付ける。リョーマが幾ら軽いとはいえ、手を使わずに腕だけでは支えて歩くのはバランスを取るのが難しそうだった。

「不二ー、コレ持ってて!」
「…いいけど。越前、どうするの?」
「んー、どうしよっかにゃ。とりあえずベッドのある所に運ぼうか」

すたすたと歩き出した菊丸に不二は眉をひそめながらも後ろから付いて歩く。

「英二、…先生は?」
「ん?行くよーモチロン!」

だって先生怖いもん、と笑って答える菊丸に、そうじゃなくて、急いで行かないとやばいんじゃないの、と不二が言い募ろうとしたとき、突然菊丸が表情を明るくさせたのを見て言うのを止める。
その目線の先には手塚の姿があった。
手塚がどうしたの?という疑問を顔に出した不二を余所に菊丸は手塚に大股で近づいていくと、腕の中のリョーマをほいと手渡す。
突然現れたと思ったら、眠ったままのリョーマを渡されて、眼鏡の奥でそうと分からないくらいに目を見張り不審そうに菊丸を見た手塚に、あっけらかんと答える。

「おちびさー、今日調子悪いみたいなんだよね。部室に来たとき顔が真っ青だったし。手塚、保健室に連れて行ってくんにゃい?俺、先生んとこに行かなきゃなんなくてさ。じゃ、任せた!」

そんで俺、部活ちょっとばかし遅れんからねーっ、と言い捨てて慌しげに走り去っていく菊丸を呆れた顔で見ていた手塚は腕の中で眠り続けるリョーマへと視線を移した。
そして、普段は無愛想な表情しか見せない顔に心配そうな優しい色を浮かべた後、不二の方へと振り向く。
滅多に見ることのない、いや、初めて見るような手塚の慈しみの表情に内心目を見張った不二を、手塚は一瞬だけ、きつい目の光で見据えるとすぐいつもの無愛想な顔に戻った。

「というわけで越前を保健室に連れて行く。大石に、俺は少し遅れるがいつものよう始めるように伝えておいてくれ」

それじゃ頼んだぞ、と校舎のほうへ踵を返して足早に去っていく手塚の背中を、じっと不二は見詰めた後、のろのろと部室へと踵を返した。
さっきから胸につかえたように疼く感情を見据えるように、ゆっくりとした足取りで。



重なるように樹の根元で眠っていた菊丸とリョーマを視界に入れたときから、胸に広がっていく何かがあった。
それは、菊丸の近くで、手塚の腕の中で、安心しきったように眠り続けるリョーマを目にしている間中、ずっと。
信じきった幼子のような表情をさらすリョーマを見るたびに、無理やりその目を開けさせたくてたまらない気持ちになった。


あんな彼の顔を見たい訳ではなかったのだ。きっと、見たいのは―――。


そこまで考えて、不二ははっと口元に手をやって部室の前で立ち止まった。
さわりと頬を風が撫ぜる。気持ちがよいはずの其れは今、気持ちを騒がす役目しか果たさなかった。
ざわざわと胸が音を立てながら騒ぐ。


自分が見たいのは、きっと。



(――――泣きそうな瞬間の、歪んだ彼の顔)



アノ時のリョーマの表情が鮮やかに脳裏に浮かんで眉をひそめると小さく首を振り、その光景を振り飛ばすようにして不二は人気の少ない部室へと足を踏み入れた。




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