コートの脇でぼんやり遠くへと視線を彷徨わす フェンスの向こうにはだれも居ない 今日は風が強くて、立っていられないほど 舞い上がる砂ぼこりが目に入った振りをして、ぐっと目尻を掌で擦った 目が痛むのだ、と けれど、本当は 心が痛かった |
嫌いになれない貴方 第七話 |
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ざわざわと教室内は低いさわめきで満ちている。 全ての授業も終了し、ホームルームが手早く済んだ後。 リョーマは乱雑にラケットバッグの中へ教科書を放り込んで溜め息をつく。 どうせ勉強などしないのだから、わざわざ家に持ち帰りたくはないのだが、机の中は空にしないと教師にどやされてしまう。 担任の教師など取るに足らないもので、怖くもなんともなかったが、説教されるのは極力少ない方がいい。 けれど、すでにジャージなども入っているせいでパンパンのなりつつあるバッグを見て、暗い顔でげっそりとした顔で息をはいた。 「なーなー、俺さ、昨日見ちまったんだよ!」 「あーもう、堀尾君ちょっと黙ってて。うるさい!」 「な、なんだよっ!」 ふいに隣から堀尾の甲高い喚き声が聞こえてリョーマは眉を顰める。 最近は手塚のおかげで寝不足からは少しだけ解放されつつあるが、それでなくても堀尾のあのウルサイ声は遠慮したい気分だった。 こっちまで被害を被らないうちにさっさと部室に行こうと、重いバッグを肩にかける。が、すでに遅かったようで、堀尾にがっちりと腕を捕えられてしまった。 慌てて回りも見渡すも加藤の姿は教室にはなく水野も日誌を書くのに必死な様子で、他に堀尾の相手をしてくれるような奇特な人物は見当たらなかった。 肩に食い込んだ手の強さに眉をしかめつつも諦めの表情で振り返る。 「越前、聞いてくれ!俺、見たんだよっ」 「…ナニ。っていうか手、放して」 げっそりとした表情で鬱陶しいという気持ちを隠そうともせずにリョーマは答えるが、鈍感な堀尾には通じていない。というか聞いていないようだった。やたらと興奮した顔をしてリョーマへと詰め寄ってくる。 そのままリョーマの腕も放さずに、嬉々として話し始めてしまった。 「不二先輩の彼女をさっき廊下で見たんだよ!!」 「…そりゃいるだろうよ、それより放して」 何を馬鹿なことを言っているのかと呆れた視線で冷たく堀尾を見るリョーマは興味も沸かないと言わんばかりに今にも背を向けてしまいそうなほど。 ココの生徒なんだから居るに決まっている。それは紛れもない事実。嫌になるほどに知っていた。 ハァと溜め息をつくと嫌そうに掴まれた腕をただただ見つめた。放してほしい、もう聞きたくもないのだという気持ちで。 その視線をものともしない、つわものの態度で尚も堀尾はどうでもいいようなことを口にする。 「相変わらず綺麗だのなんのって!」 リョーマは少しだけ表情を翳らせると視線を堀尾から微妙に逸らした。 そんなの、いやになるくらい知ってる。いつも見ていたのだから。アノ人の隣に並ぶ、全てが美しい彼女を。 アノ人の隣で綺麗に微笑む彼女を何度となくこの校内で、嫌になるほど、苦しくなるほどに、ただ見るしかなかったのだから。 分かりきった、そんな話など聞きたくもなかった。 堀尾は翳った瞳をして浮かない表情を微かに浮かべるリョーマに気づきもしない。 当然ながらリョーマの気持ちを知る由も無い堀尾は、そのままべらべらと調子にのって話を続ける。 「まぁ慌てるなって越前。実は昨日さ、俺見たんだよっ。駅前に新しく出来たブランドもんの店で」 「…ハァ?」 「誰がいたと思う?お前、聞いて驚くなよ?なんと、そこに不二先輩がいたんだよ!すげぇよな、一人であんな高級店に入れるなんてよー」 指を立てながら、堀尾は自慢そうな顔で、なぜだか自分が誇らしげに言う。 不二の名前を耳にしたリョーマはぴくりと睫毛を震わしてから、ただ、ソウ、とだけ小さく答えるが、もともと素っ気無い態度のリョーマに、堀尾は大して気にもとめていなかった。 「そんで!!こっからが大事なんだよっ。さっき不二先輩の彼女と擦れ違ったとき、左手の、しかも薬指に指輪をしてんの見たんだよ!それって絶対昨日不二先輩が買ったってことだよな?越前もそう思うだろっ!」 「…ソウ」 リョーマが素っ気無く口に出した返事は先ほどと同じだったが、それはほんの少しだけ掠れていた。 いつのまにか喉がからからに渇いていたことに気づく。 いやな気持ちが全身を包んだ。逃げ出したい。けれど見えない何かにじわじわと追いつめられて動けない。 ―――もう、何も、言わないで。 「…でもよー、不二先輩が指輪なんかあげるの初めてらしいぜ」 自分が知っていることを誇らしげに話す堀尾が憎らしい。 その先の言葉なんかもう聞きたくない。 「そんだけ本気ってことだよな、きっと」 ―――そんなの。知ってる。 嬉しそうに話す堀尾の顔を見ていたくなくて。 痛む目元がたまらずに諦めた表情で瞼をそっと伏せた。 不二先輩がどれだけ彼女の事を想っているかなんて。 そんなの、知ってる。 けれど、確かな想いなどつきつけられたくもなかったのだ。 そんなのは一度で十分だった。 訳知り顔の堀尾の口からなんてや、まして。 彼が今まで恋人に指輪を贈ったことが一度もないことは噂で知っていた。 たとえどんなにねだられたとしても決して贈ろうとはしないということを。 それなのに、あの綺麗な彼女の指には綺麗な指輪が光っているという。 これが意味することなんて。ひとつしか、ない。 暗い眩暈がリョーマを襲う。今まで何度となく訪れた闇が。 以前何でもないことのように部室で彼が口にしていた言葉を思い出す。 たしか菊丸とたわいもない話をしていた最中、ぽつりと彼がもらした台詞。 『本気になれた人にしか何かを贈ろうとは思わないよ』 ましてや指輪なんてものはね、と何でもないことのように軽く笑った。 彼が今までにプレゼントを渡す場面など見たこともなかった菊丸が、それって今までの子達は遊びってこと?とそっと問いかけたが不二はただ微笑んだだけだった。 そのとき不二は誰にも本気にならないことを知った。 そして浅ましくもリョーマは安堵したのだった。 例え、自分に望みはなくても、彼は誰にも心を奪われることなどないのだ、と。 けれど、それは過去のこと。今は綺麗な彼女が側にいる。 決して贈ることはないと言っていた指輪を贈るくらいに本気の恋人が。 不二の想いの証を指にはめる恋人が。 ふいに綺麗な二人が閉じた瞼に鮮明によみがえった。 幸せそうに微笑む綺麗な彼女の、綺麗な指に、綺麗な笑みを浮かべたアノ人はそっと指輪をくぐらせる。 そして誓いの言葉を交わして幸せそうに微笑み合う。 そんな光景まで想像するのは簡単だった。 どこか遠くの場所で耳鳴りのような音が鳴り響く。 ぎゅっと瞼に力をこめて、綺麗な二人の絵を跳ね除けようとするけれど、それすらかなわなかった。 なんて。 なんて綺麗な、ふたり。 「おいっ!越前!?お前大丈夫かよっ!?」 「…え」 「手!すっげぇ冷たいぜ!?」 気づけば、堀尾が心配そうな顔でのぞきこんでいた。 「顔色もなんだか悪いぞ、お前!」 「…何でもない」 何でもないわけないだろ!?と喚く堀尾に、再度何でもないと、手を放すよう睨むと納得いかない表情ながらもようやく解放されて、安堵の溜め息をはいた。 ほん少しだけ手が震えている。 堀尾が鈍感でよかった、と気づかれなかったことに再び溜め息をついて、先に部室に行くからと急いで踵を返した。 背後から大声で喚く堀尾の心配げな声を無視して。 早く、一人になりたかった。 帰り支度をすませた人が行き交う廊下を足早に通り抜けながら、乱れる呼吸を必死で落ち着かせる。 そもそも、不二が本気で恋人を想っているのだという事実にこんなに衝撃を受けているのがおかしいのだから。 暗示をかけるように繰り返し呟く。 アノ人のことなんか何とも思っていない。 好きでもなんでもない。 もう、忘れた、と。 けれど、そう思おうとしても、綺麗に微笑む姿や、亜麻色に流れる髪の毛、それから甘く弧を描く唇が脳裏をちらついて、それを止める術がわからない。 ぎゅっと左手を強く握り締めた。 早くラケットを握って、いつもの自分を取り戻さなければ。 ―――もう、忘れなければならないことなのだから。 |
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