慌てたような其の声も 今は虚しく過ぎるだけ |
嫌いになれない貴方 第十一話 |
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「・・・越前っ!?」 泣き濡れた顔を抑えながらリョーマが逃げ込んだ先は生徒会室だった。 昼休みの今は手塚の姿だけがあってホッとする。こんな自分の姿は他の人には見られたくなどない。 一旦、零れ落ちた涙はとどまることを知らないようだった。 ここが自分の部屋なら、一人きりだったら自然に止まるのを、枯れるのを待てばいい。いつものように。 けれど、今は学校という空間にいる。 人目につかず涙を流したままで居られる場所はここしか思いつかなかったから。 穏やかで優しい時間を与えてくれた手塚の元へと逃げ込んだ。 突然泣きながら部屋に飛び込んできたリョーマに、手塚は一瞬驚いた顔を見せたものの何もいわずに、声もなくただ泣き続けるリョーマを腕にただ抱きとめた。 その温かい手塚の体温を感じてリョーマはまた新しい涙を流す。そして何故だか不二の冷たい笑みを思い出してしまって、小刻みに瞼を震わしてただ俯く。 やはり涙腺が壊れてしまったようだ。 手塚の胸元を握りしめて必死に声を押し殺そうとするリョーマに手塚が穏やかに言葉をかけた。 「つらいのなら、泣いてもいいんだぞ」 それは以前この場所で同じように手塚がリョーマにかけた言葉。 けれど今は違った響きでリョーマの耳へと届く。 見守るような手塚の声音にもう抑えきれなくなって。 耐えていたはずの嗚咽が奥からこみ上げて来て、とうとう引き攣るような声で、切れ切れにリョーマは叫ぶ。 「・・・っ、あんな・・・!わ、ざわざっ、確認、するようなことしなくても・・・っ、言われなく、ても・・・っ、消すつもりだった・・・っ!消えるつもりだったのに・・・っ、・・・あんな・・・ッ、」 嗚咽が交じるせいで、苦しそうに、喘ぐようにリョーマは必死に言葉を紡ぐ。 「・・・ッ、・・・いっそ、嫌いに、なれたら、いいのに・・・っ」 そう引き攣るように小さく叫び、顔を俯けて肩を震わせる小さな姿に、手塚は痛そうにぎゅっと眉を寄せた。 決して泣かないと言ったリョーマ。 けれど、その誓いを破らせた人物が居る。彼の虚勢を崩すような何かをした人物が。 手塚は胸の中で震えながら尚も泣き続けるリョーマを強く抱きしめた。 それができるのは、きっと、不二だけ。 気が強いはずの生意気なこの小さな後輩を泣かせることのできるのは。傷をつけることができるのは不二だけだ。 必死で押さえつけていた恋情が鎌首をもたげる。言ってはならない。さらに彼を苦しめることになるだけだ、と心のうちにしまっておいた想いが。 ゆるりと手塚の全身に纏わりついて心臓をぎゅうと掴んだ。 掠れた声が喉をつく。 「好きだ、越前」 言うつもりは、なかった。 けれど、もう、ただ見てはいられない。 傷ついて痛々しく震えて泣き続ける彼を、このままにしておきたくはなかった。できるものなら。それが自分なら。 自分なら決して泣かせるようなことはしないのに。 「お前が、ずっと好きだった」 今度ははっきりと大きな声で、再度胸の中の存在に告げた。 重々しくも響いた手塚の言葉にぴくりと肩を揺らせると、リョーマはこわごわと顔をあげる。 いつもは強い光を放っていたはずの黒い瞳は今、真っ赤に染まっていた。 泣き濡れて頬に幾筋もの水痕を残した幼い表情が胸に痛かった。 少しでも彼の痛みが減るように、柔らかい頬に伝う水滴を手の甲で拭って笑う。 「・・・すごい顔だな」 手塚の突然の告白に驚いたのか、今だ呆けた顔を曝す幼い泣き顔に苦笑しつつ、ゆっくりと言葉を続ける。 「お前がテニス部に入ってきたとき。 すごい一年が入った、と頼もしく感じながらも、どこか危なっかしいお前のことが気になってしかたなかった。気づけば、いつでもお前の姿を探すようになっていた。 コートの上ではやたらと強気だが、それ以外では驚くほど無防備で危なっかしいお前を。 ・・・できることならお前を傷つけるもの全てから守ってやりたい、と、そう思うようになっていた」 愛しいものを見るような激しい視線が自分を包み込んでいるのを気づいて、リョーマは身じろぎ一つできない。 まさか今まで優しい時間を与え続けてくれた手塚が、こんな強い想いを秘めながら自分に接していたとは微塵も気づかなかった。 ただ、驚愕が全身を覆う。それと同時に甘え続けてきた自分への嫌悪もつのった。 いたたまれないようなリョーマの様子に手塚は苦笑しながらも、腕に力を込める。 「お前を困らせたくはない。けれど、不二に傷つけられて泣くお前は、もう見たくはないんだ。いつだってお前には笑っていてほしい。 …できることなら、俺の側で」 「・・・・・・でも、オレは・・・っ、」 「お前が今も不二を想っていることは分かっている。それでも、だ」 言いかけたリョーマの言葉を遮って、強く手塚が言い募る。 今まで見せたことのない手塚の熱い視線にそれ以上リョーマは何も言えなくなってしまった。 言わなくてはならない言葉は自分でも分かっているはずなのに。 ただ、黙って俯いたリョーマの黒髪をそっとひと撫でしてから、手塚は名残惜しげに小さな身体を解き放つ。 「お願いだから。今は答えは出さないでくれ。ゆっくり考えてほしいんだ。 ・・・不二への想いは俺の側でゆっくりと消していけばいいと思っている。そうする自信はある」 視線を外そうともせず、力強くそう言うと手塚は踵を返して生徒会室を出て行った。 リョーマは混乱する思考のままじっと佇んでいたが、ぼんやりと彷徨う視線で壁の時計を見やると、すでに5時間目が始まろうとしている時間だった。 * * * * * ―――その夜。 一人きりになったリョーマは必死で思考をまとめようとしていた。 湯気の立つ浴槽に肩までつかると、凝り固まった胸のつかえが取れるような気持ちになってほっと息をつく。 今日はいろいろとあって、今だ頭がこんがらがっている。 図書室での不二との会話。 決して泣かないと決めていたのに。不二にも手塚にも涙を見せてしまったこと。 それから生徒会室での手塚の告白。 不二への想いはだんだんと消していけばいいと手塚は強い瞳で言った。 浴槽の壁にもたれかかった背中をずるずると持たれかからせると白い乳白色の湯が口元まで上がった。 呼吸に伴なってぶくぶくと吐き出される泡をぼんやりと見つめて思う。 確かに手塚に持たれかかることは楽だろう。 もしかしたら、手塚の事を好きになれるかもしれない。 手塚と過ごした生徒会室での穏やかな時間はとても心地よいものだった。 安心するような。守られているような。 でも―― ぎゅっと瞼を閉じた。ふいに脳裏に浮かぶのは、冷たい不二の笑み。 今日見た彼の表情はずっと見たいと願い続けていた、彼の暗い部分をほんの少し覗かせていたように思う。 嘘のような貼り付けた甘い笑みではなく、彼の奥底に流れている掴めない表情を、ほんの少しだけ。 自分が望んでいた形ではなかったけれど。計らずして彼の素顔が見られたのかもしれなかった。 冷たく笑う不二を思い出して、ぞわりと背中がそそけ立つ。 温かいお湯につかっているはずなのに、指先が冷たく感じてしまって、両手をぎゅっと握る。 冷たく笑う、それでも綺麗な綺麗な彼。 その優美な唇が紡いだ残酷な言葉を思い出す。全身を引き裂くような、痛いことばを。 彼が自分を何とも思っていないと改めて突きつけてくれた言葉の数々を思い返して、ぎゅっと目を閉じて、上を向いた。 ―――恋が。この恋がもっと甘やかなものだったら、よかったのに。 決してコレが初めての恋というわけではない。 本国にいたころはそれほど活発ではないものの、恋愛のいくつかを可愛らしい少女たちと行なってきたつもりだ。 そしてそれは大抵において自分の気持ちを甘く楽しいものにしてくれた。彼女達の嬉しそうな笑みを見るだけで幸せな気持ちに包まれたものだった。 両想いな関係がほとんだったけれど、勿論一方通行な気持ちを持つしかない付き合いもあった。 けれど、今の気持ちは過去のどれにも当て嵌まらない。 本当にこれは恋なのだろうか。 いや、そうではなくて今までの恋愛だと思っていたものが違っていたのか。 もう何も分からなかった。 小さくかぶりを振るとリョーマは儚い笑みを浮かべた。考えていてもしかたのないことだった。 この想いは諦めなくてはならないもののはずで。 今日、アノ人は其れをはっきりと知らしめてくれただけなのだ。 ただ、其れを手塚の側で行なってよいものなのか、そこまで彼に甘えてよいものなのだろうか。 確かに、手塚のすぐ側は安心できるもので優しい気持ちにさせてくれた。 其れに甘え続けてきたのは消せない事実だった。 けれど、其れも手塚の告白を聞く前までのこと。 今は、もう、手塚が自分のことをどう想っているのか、はっきりと其の口から聞かされてしまった。 知らない顔で手塚にもたれかかることは、もう、できない。 真剣な瞳で想いを告げてきた手塚。 彼からは気づけば温かいものを貰っていて、いつだって穏やかな気持ちにしてくれた。 もしかしたら手塚の言うとおり、彼の側に居るうちにこの想いは消えるのかもしれない。 けれど―――。 ハァと溜め息をつく。何度考えても堂々巡りで終わりは見えない。 手塚に出すべき答えも。自分の想いの行方すらも。 今の自分に、分かっていることはただ一つだけだった。 もう何も知らなかったときのように手塚の待つ生徒会室へと行くことはできないということだけ。 きっと次にあそこへ行くのは、答えが出たとき。 リョーマは苦しそうに眉根を寄せるとぎゅっときつく瞼を瞑って、浴槽へと顔を潜らせた。 |
2004/10/22 |
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