赤い実、熟して ぱちん、と 落ちた |
[赤い実、はじけた] 後篇 |
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「おはよう」 「…………」 部活の間中、リョーマはずっと不二を無視し続け、帰りもさっさと一人で帰ったのだが、翌朝になると奴は前日の如くひょうひょうと家の前に立っていた。 挨拶もせずにただ睨みつけるリョーマに、どうしたのかな、と不二は困ったように笑いかける。 何もなかったような其の表情に思わずカッとなって怒鳴りつけそうになるのを、ぐっと堪えると、無視して不二の側を通り抜けた。 「…どうしたの?其れ、いつもは両手に付けてないじゃない」 「………アンタのせいッス」 普段は利き手にしか付けないリストバンドが両手に嵌められているのを目聡く見つけた男が不思議そうに聞く。全然関係ありません、みたいな其の口調に、もともと真っ直ぐだったとは言い難い機嫌が更に傾いていくのが分かって、リョーマは低く唸った。 どう見ても人の指の跡にしか見えない痣を堂々と曝しておけるような神経はない。 何とかして消えないかと昨夜お風呂でマッサージしてみたが、全く効果はなく、それどころかより綺麗な薔薇色になってしまったのだ。 鮮やかな痣を見ては、不二を思い出し、胸がざわついてしかたなかった。 「アンタが馬鹿力で握ったから」 忌々しげにリョーマが言うと、不二は綺麗に柳眉を歪め、痛々しそうな表情を作る。 「ごめん、ね?」 低く甘い声で囁くと、恭しくリョーマの両手を取って、布越しにそっと唇を落とした。 「…ッ、ナニ、するんすか!」 バッと振り払って両手を後ろに隠す。 布越しの口付けに頬が染まるのを抑えきれない。 其れは奇しくも、昨日のリョーマの行動と同じで。 倣ったかのような不二の口付けに、まさかあの時見られていたのかと錯覚してしまう。 真っ赤になっていく顔を見られたくなくて、不二を置き去りにして急いで駆け出した。 (―――あの人もオカシイけど、オレも変だ!) 追いつかれないように必死で学校へと駆ける。 だんだんと胸のざわめきが増してゆく。酷く呼吸が苦しかった。 ――それとも、不二がオカシイから、つられてオカシクなってしまったのか。 考えれば考えるほど曖昧になり、もう分からなかった。 これ以上おかしな目に合いたくない、となるべく不二を視界に入れないよう朝錬の間も校舎の中でも気をつけていたリョーマだったが、昼休みのチャイムと同時にクラスへ現れた不二に有無を言わさぬ態度で屋上へと拉致された。 「まぁまぁ、そんな怖い顔しないで。お腹も減ったし、いただきますしようか」 「………」 視線も合わさず一言も喋らないまま、リョーマは箸を持つ。 此処に来るまでも何度も逃げようとしたが、其の度に逃げられないことが分かり、それならさっさと食べ終えてしまおうと思ったのだ。 昨日みたいにおかしな真似に合ったらたまったものではない、と警戒しながら、ご飯を口に入れた。 全く持って取り付く島の無い頑なな態度を取っているというのに不二は気にしない素振りで話し掛けてくる。 其れでも無視して黙々と食べ進めるリョーマに不二は気分を害した様子もなく、笑みを浮かべながら一人で楽しげに話し続けていた。 「………センパイ」 「ん、なんだい?」 屋上へ来てから初めてリョーマから発せられた言葉に、不二は嬉しげに聞き返した。 「……」 「どうしたの?苺がほしいの?」 ずっと話し続けていたのにも関わらず、不二は疾うに昼食を食べ終え、今はデザートへと手をつけている。 大粒に光る苺を一粒摘むと、甲斐甲斐しくもリョーマの口元へと運ぶ。 「はい、どうぞ」 「どうしてオレなんですか」 「…うーん…其れは難しい質問だね」 受け取られなかった苺をちらりと見て引っ込めた不二は、ちっとも難しいなんて思っていない口調で言った。 其れがはぐらかしているように感じられて、リョーマは目の前で微笑み続ける男の顔をきつく睨んだ。 底の見えない男の微笑は何だか胸を落ち着かなくさせる。 其れでも此処で引くわけにいかない、と弧を描く瞳を睨み続けた。 はぐらかしてほしくなんかなかったから。じゃないと、逃げようにも逃げられない。 主義に反するけど、形振りなんて構ってる場合じゃないところまで。前にも後ろにも進めないところまで、追い込まれてるって分かってる。 「…そうだなぁ…君にキスしたいと思ったんだ、其れが始まりかな」 「…そんな、理由?」 「うん、ちなみに今もそう思ってるよ」 不二は軽い調子で言うと摘んだままの赤い粒にちゅっと口付け、甘い眼差しでリョーマを見つめた。 からかうような口調と其の視線にリョーマは頬に血を上らせ、ぎっと視線を強くする。 意図せずして二人の視線が絡まった。 綺麗な二つの琥珀にリョーマは、ときりとするが、先に視線を反らしたら負けてしまう気がして、ひたすらに睨み続ける。 毛を逆立てた仔猫みたいな態度に、不二はふっと笑うと、ゆるりと手元の苺に視線を移した。 軽く外された視線に、勢い込んでいたリョーマは拍子抜けして、次の瞬間には訳の分からぬ怒りが湧いた。 余裕の色ばかり浮かべる男に翻弄されているのなんて分かってる。 其れでもいつもの強気な態度に出られないのだ。 (――いったい、どうしちゃったの?) この人も…それから、オレも――。 男の美貌から目が離せないまま、散り散りになって逃げていく思考を必死に捕まえようと、自然リョーマの視線は険しいものになる。 ずっと注がれる強い視線に気づかないのか其れとも気にしてないのか、不二は目を伏せたまま、ゆっくりと苺に歯を立てた。 季節にはまだ早いというのに、其の赤は酷く艶やかな色をしていた。 かつ、と綺麗に並んだ白い歯列で、不二は赤い果実に齧り付く。 真っ赤な表皮が捲れて、中から熟れきった白い果肉が見えた。 其の赤と白のコントラストに何かを思い出してリョーマは、はっと目を奪われる。 次の瞬間、赤い果汁が滴り落ちて不二の綺麗な唇を濡らしていった。 ――つやつやと光る、整った、薄い唇。 真っ赤な苺。 透きとおった白い果肉。 優しく触れては離れていく。 時折り、鋭く歯を立てて。 濡れた唇でキスを落とされる――― (……!…今、何を考えた…?) 赤と白のコントラスト。 重なる唇。 柔らかい感触。 口中を探る、熱い舌。 ―――其の唇に、触れたい――― 『君にキスしたいと思ったんだ』 一気に身体中の熱が上がる。 (ちがう、ちがう、そうじゃない!) 疼く胸が抑えきれない。 (ぜったい、ありえない。こんなのウソだ…!) 「君が、好きだよ」 思考を読んだかのようなタイミングで不二がそっと囁いた。 耳を擽る甘い響きに愕然とする。 あのときは、夕暮れのコートでは、こんな気持ちは感じなかった。 ただ、ただ、驚いて、慄いただけだったのに。 (――全身が心臓になったみたい――!) 「やめて、ください!」 心をかき乱す言葉を言わないで。 頭はぐちゃぐちゃで、何も考えられそうに無いのに、そんなこと。 「君にキスしたいんだ」 かっと頭に血が上る。 瞬間、思い出されるのは。 唇にそっと触れる柔らかい感触。 歯列を辿る温かい舌。 心地よい、と思った―― 「…ッ、したいんならすればいいだろ…!」 そうだ。 キスして欲しい、と思ったんだ。 彼の、赤く染まった唇を見て。 ただ、触れたいと。 触れて欲しい、と―― 「お望みのままに」 笑って、不二はそっと首を傾ける。 触れ合った唇からは赤い果実の味がした―― 「……なんか、すごい負けた気がする…」 ただの先輩だと思ってたのに。 ちょっと胡散臭いけど、テニスの巧い、倒すべき先輩だ、と。 ただ其れだけ。 其れなのに。 気づかないうちに植え付けられた想いの種が、いつのまにか芽吹いていて。 唇を触れ合わせる度にどんどん大きく育った赤い実が、ぱちんとはじけてしまってからでは遅かったのだ。 「惚れた方が負け、っていうけどね」 だから君の勝ちなんじゃない?と嘯く表情は全然そんな風に思っていないと言っていて。 「なんかすっごく納得いかないんデスケド!」 憤懣やるせない顔でそっぽを向くと、耳元で、ふふ、と笑う声が聞こえた。 「本当だよ。僕はいつだって君に負けつづけてる。だって、君を見る度にキスしたくてたまらなくなるんだから、ね…」 甘く囁かれた台詞とともに優しい口付けが降りてくる。 ふわふわする胸の奥で、また、ぱちん、と何かがはじける音が聞こえた。 |
2005/11/19 |
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