「…兄さん……」


囁きは闇へと消えて届かない。


















止まないを斬りいて私を此処から連れ出して

+前篇+














昼間だというのに暗い廊下を静かに進む。
元は武家屋敷だという大きな屋敷は多くの使用人を抱えているはずなのにまるで誰もいないかのような静けさを湛えて音一つない。
風の音ですらも遮るような闇に溜め息を一つ落とすと、リョーマは一際大きな部屋の前で居住まいを正した。

「…ただいま、帰りました」

暫くしてから襖の向こうから静かな声が返る。
静かで、とても冷たい声。

「…遅かったな。今日は大事な会があるから早めに帰るように言っておいたはずだが」
「…申し訳ありません。クラスの所用で学校を出るのが少し遅くなりました」
「もういい。直ぐに支度をしなさい」
「はい。……申し訳ありませんでした」

襖の向こうの見えない相手に深くお辞儀をすると、リョーマは立ち上がって、静かに歩きだした。
暗い廊下、静かな屋敷、冷たい声。


息が詰まる。





―――リョーマがこの光の射さない屋敷で暮らすようになったのは六年前の春のこと。







母親はどうしようもない人だった。







好いた男と駆け落ち同然で飛び出した挙句に呆気なく捨てられて。
その頃には既に小さなリョーマがいた。
実家に戻ることも出来ず。けれど、独りでいることが耐えられない彼女は次々に男を作った。
元は良家の娘だった彼女は根がとても素直な女で、信じては騙されて。捨てられては泣いての繰り返し。
けれど幾ら泣いても幾度嘆いても、独りになるくらいなら不幸を選ぶ。そんな女だった。
常に誰かがいないと耐えられない哀れな女。
けれども彼女の孤独をリョーマでは救えなかった。
温もりを求めても返ってこないと気づいたのはいつだったろうか。
母親を求めて彷徨う暗い夜さえも彼女は誰かの腕の中だった。
いつしかリョーマは諦めを覚え、邪魔にならないように息を潜める術を知った。



母親に抱きしめられた記憶が一回だけある。



まだ春と呼ぶには肌寒いその日。
蕾を付けた桜が並ぶ坂道を母親と手を繋いで登って、時折り吹き付ける春風が妙に寒かった。
今まで知ることもなかった彼女の手の熱が馴染むころには、坂道のてっぺんに辿り着いていて。
其の大きなお屋敷の前で足を止めた母親の表情には色がなくて、でも唇だけがいやに青くて。
其の唇が動くのをただぼんやり眺めていると、ふいにきつく抱き寄せられた。
初めて感じた母の体温は寒さで粟立つ肌には酷く熱く感じられて、身動きも出来ずにただ立ち竦んだまま。
震える背中に手を伸ばすことさえ出来ずに。
やがて彼女は一言何かを呟くと、坂道の向こうに消えていった。

其れをぼんやり眺めているうちに、リョーマは母親が囁いた言葉の意味をようやく理解した。

『…ごめんね……』


其れは惜別の言葉。



其れから幾度か桜の蕾が花開いては散っていったけれど、一度も彼女の行方を知ることはなかった。





+
+
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+



「お久しぶりです」
「ごきげんよう」
「御立派になられたわね」


華やいだ雰囲気の中で其処此処から挨拶を交わす言葉が聞こえてくる。
満開に開いた桜が穏やかな春の光を届ける中、春の定例会が行なわれていた。
春には桜を愛で、夏は鈴の音を楽しむ。秋には紅葉を。そして冬には新雪を。
茶会を伴ったこの席では財界に縁深い人々が集まり、交流を深める。
極一部の限られた人々の集まりであるため、然程の人数ではないが、其れでも居心地が悪くて、何だか息苦しかった。
リョーマは俯いてそっと息をはいた。


「…リョーマくん、気分が優れないのかな?大丈夫かい?」

ふいに柔らかな声がすぐ側から降ってきてリョーマは身体を強ばらせるが、其の声が馴染みのあるものだと気づくと、そっと肩の力を抜く。
何でもない顔を作って、薄く微笑んだ。誰であろうと弱さは見せたくなかった。

「今日は御招き有難う御座います、お久しぶりですね…不二先輩」

不二の言葉を無視するように挨拶をするが、不二は尚も心配そうに顔を覗き込んで眉をしかめる。

「顔色が少し悪いね…奥で休むかい?」
「大丈夫です……ちょっと、着物がキツくて…」

心配ないと肩を竦めて、其れ以上追及されないように別の理由で誤魔化す。
生憎このたおやかで美しい男は外見とは裏腹に、苛烈で鋭く相手を刺す性格であるとは分かっていたけれど、どうやらリョーマの気持ちを汲み取ってくれたのか、それ以上は何も言わなかった。

「そう……とても良い色だね。君には紅がよく似合う」

目を眇めてリョーマの艶姿をうっとりと見つめる不二の視線に居た堪れなくなってリョーマは微かに身を捩った。
其れに気づいた不二が小首を傾げて笑った。彼が其の癖をする度に、さらさらとした栗色の髪がはらりと落ちる。
彼の甘い笑みによく似合う甘い色だといつしか思ったことがある。

「ごめんね。あんまりにも君が可愛いものだから」

そう言って微笑む彼はとても綺麗な男だった。
リョーマの二学年上にいたこの男は、優しい笑みでリョーマにいつも甘く囁いてくれた。
其の真っ直ぐな賛辞を受ける度に、其の度にリョーマはただ困ったように小さく笑うだけだった。
不二が酔狂にもこんな自分を好いてくれていることは知っていた。
其れゆえに自分の誤魔化すような態度に時折り苛立っていたのも気づいている。

でも、リョーマには其れしか術は無かった。
熱心な愛の言葉を受け流す理由しか自分は持っていない。



だって、もう、心は何処にも無いのだから。
攫われて、しまって。
此処にはもう何もない。


誤魔化すように笑う視線の先で、冷たい男の表情が映った。
其の理知的な白い面の奥で彼はきっと温かい手を持っている。



「…リョーマくん?大丈夫?」

ぼぅっとしているリョーマを心配したのか、再び顔を覗き込んでくる不二にハッとして、大丈夫だと返事をする。
其れでも不二は今度こそ引かないとリョーマの白い手を攫った。
其の熱にリョーマは一瞬目を瞠るが、やがて瞳の奥が微かに傷ついた様に翳った。

(―――ちがう)

そして、ぎゅっと握りしめてくる不二の手は、男の手だとは思えないように滑らかでとても綺麗だと、場違いなことさえ思った。

「……君は辛くても我慢するところがあるから。我慢しすぎとこがあるから………僕は…っ」

いつもの彼らしくなく言葉を詰まらせると、痛いほど両手を握り締める。

「…リョーマくん…お願いがあるんだ。……僕が来月当主の座に着くことを知ってる…?」

真剣な眼差しにリョーマがただこくんと頷くと、不二も黙って頷き返す。

「そうしたら僕は結婚しなくてはならなくなる。……けれど、」

苦しそうな目で、表情で、不二はリョーマを追いつめる。
両手から伝わる熱が恐いとさえ思った。

「けれど僕は君以外の人とはしたくはない。…僕の気持ちは知っているよね?」

リョーマはまたもやこくんと頷く。
好きだ、愛してると移りゆく季節の中で、飽きもせずに不二は囁いてくれた。
――リョーマにとっては其の不二の言葉が逃げ場でもあった。

「僕は君を愛している。お願いだから、僕と結婚してくれないか…?」

哀願する様な不二の言葉にリョーマは身を強ばらせる。
いつものように笑って誤魔化そうとしても、もう許されないことは分かっていた。
彼はいつだって真剣で、笑って誤魔化す自分を其れでも甘やかすように許してくれて。

でももうダメだ。ふるりと黒髪が揺れる。
――逃げ場さえ、なくしてしまうのか。


ぎゅっと目を瞑って俯いた脳裏で、理知的な彼がちらりと映る。
冷たく映る彼が意外なほどに熱い手を持っていることを自分はもう知っている。
今、懇願するように握られた手が違和感を喚起させて仕方がないのはそういうことだった。
もうあの手の熱以外は馴染まないのだと思うと眩暈がした。



(―――想っては、ならない人、なのに―――)



立ち竦むリョーマをただ見つめていた不二は息を弛めると仕方がなさそうに笑って、手を離した。

「ごめん。性急過ぎたね。……でも僕の気持ちは変わらないから。…あとで、手塚にもお願いしに行くよ」

其の言葉にパッと顔を上げたリョーマに、安心してと微笑む不二。分かってるから、と。
(ちがう。)
言葉にならずにふるふると首を振るリョーマに、困ったように微笑む不二は、大丈夫だから、僕に任せて、と繰り返す。
(ちがう。ちがうのだ。)

けれど其れ以上何も言うことは出来なかった。





―――――あの人に、知られたくなど、なかった。







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大きな屋敷の一番奥にある暗い部屋。
其れがリョーマの部屋だった。
光が差し込むことなど殆ど無いこの部屋で小さなリョーマは息を潜めて暮らした。
使用人の気配さえしないこの大きな屋敷は闇をたくさん抱えているようで酷く恐しかった。
其れは特に夜の闇。
ゆっくりと覆うように被さってくる深い闇が迫って自分も取り込んでしまうのではないか、と
布団の中で怯えていた小さなリョーマを救ってくれたのは一つの温かな手だった。
ぎゅっと目を瞑って震えるリョーマを、ゆっくりとした動きでただ宥めてくれた其の手の持ち主を結局見ることは出来なかった。

目を開けたら覚めてしまうかもしれないと。
消えてしまう夢だと、畏れて。

だって、彼であるはずはないのだから。

冷たい声で、冷たい貌で、冷やかに突き放したあの人である筈はない。
いつだって彼は不機嫌そうにリョーマを睨むことしかしなかった。
母親にさえも必要とされなかった少女を、同族の情けで引き取ってくれたのは滅多に屋敷へは帰らない彼の両親だったけれど、
其れに彼の同意がないままで行なわれた行為だということは、初めて彼に会った時にすぐ分かった。

彼は酷く不機嫌そうに目を眇めて短く自己紹介をしたきり、其れきり、だった。
交わす言葉は襖越しで姿さえ見せてくれない。
だから、彼であるはずがない。
彼がこんなに優しい手を自分に与えてくれる筈が無いのだ。
母親にさえも疎まれて、迷惑にしかならない居候同然の少女を彼が気にする筈も無いのだ、と。
けれど、彼だったらよいのに、と願う自分もいて。

だって、リョーマは一目見た瞬間に、彼に全てを奪われてしまった。




――彼はとても美しい青年だった。

年齢的にいえば少年の域に修まる筈だったが、凛とした眼差しが其れを裏切っていた。
強い意志を示す切れ長の瞳は少年というよりむしろ青年のもので。
自分に自信を持つ者特有の強い煌めきが浮かぶ眼差しに酷く惹きつけられた。
すらりと伸びた体躯にも、流れる艶やかな黒髪にも、響く低音にも。
強くて綺麗な全てを持っていた彼はリョーマの目には酷く輝いて見えたのだった。
こんな人間もいるのか、と強く惹かれた。


きっと、だから、目を開けられなかった。
だからこそ、眠った振りをするしかなかったのだ。


もし彼じゃなかったら、と思うと。
彼が自分を気にかけてくれるはずなんかないのだ、と思うと。
一層深い暗闇に落ちていくようで、恐かった。





其の温かな手を、今だに確かめることができないまま。

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寝静まった屋敷の廊下をひたひた、と歩く足音が聞こえて、リョーマは布団の裾をぎゅっと握りしめる。
今ではもう回数こそ減ったけれど、其れでも時折り夜中になるとリョーマの様子を見にきてくれるのだ、彼は。
そして悪夢に魘されていないか確かめるようにそっと頭を撫でると、頬を優しく一撫でしてから、来た時と同じように静かに出て行く。


今日も、其の筈だった。


音も無く、襖が開くと衣擦れの音が密やかに響いて枕元に座る気配がひとつ。
それからリョーマの黒髪を暫く撫でて。
ふ、と其の手が離れた。
随分と長い時間が経った様に思えてから、温かい手はそっとリョーマの白く少女らしい頬に触れた。
いつもだったら、軽く手の甲で撫でてこの温もりは離れてしまう。

けれど、この日は違った。

頬を手の平で包み込むように触られて。
リョーマの耳元で、しゃら、と衣擦れの音がした。
空気の動きが変わったと思ったら、柑橘系の香りが鼻をくすぐって。


そして、唇にそっと触れる柔らかな温もりが。







静かに足音が廊下の向こうへと消えていっても、リョーマは身動き一つ出来なかった。
ようやく目を開けて天井の闇を見て。
温もりを辿るように、震える指で唇をなぞった。

(――今の、は、なに……?)

唇に確かに触れた柔らかな感触。
額に落ちた、柔らかな髪。
そして、揺れた空気の中で強く馨った柑橘の香。
――あの人の馨り。

暗闇から逃れるように震える両手で顔を覆う。

どういうこと。
どうしてキスしたの。
なぜ。
どうして。

疑問が頭を埋め尽くした後、胸の奥から熱いものが溢れ出して頬を伝うのが分かった。


―――好きになっては、イケナイ、ひと―――


お願いだから、優しくなんて、しないで。


温もりの持ち主を確かめないままでいるのは、彼じゃなければよいのに、と思う心もあったから。
彼だったらと望む心の奥で、同じくらいに強く、彼じゃなかったらと、願う自分もいた。


だって、これ以上、惹かれたくない。
好きになってはいけない人なのに。
自分は彼には相応しくない。
其れに何より――



震える身体に闇が迫る。



「…兄さん……」



――其れに何より、禁忌の関係。






震える音は闇に溶けて誰の耳にも届かない。







2005/05/29  

  →後篇






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