*** 赤薔薇、青薔薇 *** |
授業を終えて少し部活動開始には早めの時間に、不二が部室に入ろうとドアに手をかけた時、 愛しい恋人の声が耳に飛び込んで来た。 私立だというのに伝統ばかり古く、構内の至る所で不具合や綻びが見つかるこの青春学園では クラブボックスも当然例外ではなかった。 同じ都内の氷帝学園と比べるまでもなくボロイの一言に尽きる。壁も薄く外に立っていても中での話し声は筒抜けになる。 残念なことに同じ学年ではないため、部活動以外で恋人がいったいどんな学園生活を 過ごしているのか知りたいという純粋な好奇心や、後で、今日こんなことがあったでしょう、と驚かせてやりたい悪戯心も少しだけあって。 彼はどうやら同じクラスの友達数人と話しをしているようだ。 名前は、確か堀尾、それから水野、加藤とかいうようだった気がするが、 リョーマ以外の一年生には全くといってよいほど関心がないため定かではない。 三人の中でも一番声が大きく五月蠅いとも言って差し支えない少年が今声高に話していた。 「っかー!本当ムカつく奴だな、お前ってやつは!」 「別にどうでもいいんだけど」 「よくない!!だからお前ってやっ、」 「まぁまぁ堀尾君。落ち着きなよ。リョーマ君は確かに悪くないよ。むしろ好きでもないのに付き合うほうがどうかと思うし。いくら堀尾君が振られた子だからってリョーマ君に当たるのはよくないよー」 「こらっ!昨日の今日なんだから傷口抉るみたいに振られたとか言うなよ!!」 どうでもいいが。 どうやら堀尾という少年は昨日振られたばかりらしい。 そしてこちらはどうでもよくないことだが愛しの恋人は今日堀尾とやらが好きだとか言う女の子に告白された、というわけか。 そこまでの部室内でのやり取りを聞いて、忌々しげに不二は舌打ちをした。 容姿も才能も全てにおいて極上であるリョーマが自分以外の誰かに告白されるのはよくあることだった。 成長途中にあるため身長こそ見劣りするものの、女子と比べて成長の遅い男子はこれから急に大きくなるので其れほど重要な問題でもない。 父親である南次郎の体格と照らし合わせてみても、きっとリョーマも今に平均身長を軽く追い越すだろう。 実績と栄誉溢れる男子テニス部、唯一の一年生レギュラーにしてこの容姿、帰国子女ということもあり英語は堪能、聞くところに依ると他の教科も遜色のない成績を収めているらしい。 また以外にも、男女平等の色濃い国において育ったからか母親の教育の賜物だかは知らないがフェミニシズムを意図せず見せることも多いと聞いた。 これで女生徒が色めかないといったら嘘になる。 また、やっかいなことに敵は女ばかりではなかった。 中性的な美貌と勝ち気な態度はどこか男達の征服欲を呼び起こすようで、入学したばかりのリョーマに目をつけているという男子生徒も数多かった。 今回は女子ということでまだよかったのかもしれない。 自分の知らない処でリョーマのつれない態度に逆上した男に無理やり、なんて想像しただけでも目の前が怒りで真っ赤に染まる。 もっとも、そんなことになる前に恋人の当然の勤めとして告白した奴等をリョーマに 気付かれないようにこっそりと裏で片をつけてはいたのだが。 二度とリョーマに近寄ろうと言う気が起こらないよう完布無きまでに懲らしめてやっている。 しかし、尋常ならぬ影の制裁を加えていると言うのに告白するものは後を絶たない。 もっと強力に対策を考えなくてはならないのかもしれない、と不二は密かに決意の拳を握って、何か良い策を、と思案する。 いっそ全校生徒の前で発表するという手が一番いいと思うんだけど、と一度不二が提案したものの、当たり前だが肝心のリョーマが頑として首を縦に振らなかったため、その案は泣く泣く諦めたのだった。 そこに運の悪いことに今日も部活に励もうと歩いてきた菊丸と乾が、部室の扉の前で怪しげな雰囲気を醸し出しながら悩む不二を見つけて声をかけることとなった。 「不二〜。にゃんで入らないん・・・」 「シッ!静かにしてよ英二!今いい案が思い付きそうなんだから」 「にゃっ!」 「この不二の様子だと越前に関しての何かよからぬことを考えている確率95%、不二の邪魔をして陰湿な嫌がらせをされる確率100%だな。今は声を掛けないほうがいい」 「それじゃ部室入れないじゃんかよ!」 「まぁ、待て。もうすぐ手塚たちが来るからな。やつを生け贄にすればいい」 「…すまん!手塚。俺はまだ生きていたいんだ…」 ブツブツ呟く不二の後ろで、二人がひそひそと言葉を交わしていると部室の中から喧しい声がし、其方に注意を引かれる。 「だーっ!!もう!越前は失恋したことないから、そんなことが言えんだろ!もてる奴はいいよなっ!!」 「は?何言ってんの?」 「だから簡単に振っちまえんだよっ」 「いったい何が言いたい訳」 「だから!お前は振られたことがないから俺の気持ちも彼女の気持ちもわかりっこないってことだよ!」 興奮の余りか裏返ったように叫ぶ堀尾に呆れてハァと溜め息を漏らすとリョーマは低く呟いた。 「ご期待に添えなくて悪いんだけど。…失恋、したことくらいあるよ」 ドアの外がぴしりと固まり、笑顔のままの不二から只ならぬ負のオーラが巻き起こるのを菊丸は直ぐ側で感じたが、悲しいことにこの場から逃れる術が見つからなかった。 不穏な空気の原因となった酷く可愛い後輩に何てコト言いだすんだ、おちび〜と溜め息をはいた。 あっちゃ〜、不二のこの笑顔。これは相当お怒りだよ・・。おちび・・どうやら俺には止められそうにないよ…。 この後起こるだろう事態が容易に想像できて青褪めつつ、一先ず続きを聞こうと好奇心から耳をそばだてた。 どうやら中にいる一年生もリョーマの発言には驚いているようだった。 「はぁ!?嘘付くなよ。いったい誰にだよ?だってお前、不二先輩と付き合ってんだろ?振られるわけねぇじゃないかよ」 「・・・堀尾、それ。誰に聞いたの?まさか・・・」 「不二先輩がテニス部の皆に話してたぜ、嬉しそうに」 「・・・黙ってられないのか、あの男は…!」 酷く憎々しげに、本人が望まざるも平生可愛らしく聞こえる声とは裏腹に低く舌打ちをしたリョーマに、好奇心が抑えられずに堀尾は尚も興奮気味に言葉を重ねる。 「んで誰なんだよっ?」 「ちょっと堀尾君、いい加減にしなよ。リョーマ君に失礼だよ!」 「別にいいよ。向こうに居たときのことだし。昔の話」 「じゃぁ、小学生のときかよ。ませてんなぁ」 「ちょっと堀尾君!」 感心したように大して考えずに物を言う堀尾を見かねて再度注意を促そうとカチローが言うのを、越前は気にしていないと軽く言葉を続ける。 「まぁね。今よりもっと子供だったし。恋とは言えないもんだった。・・・今思い出しても痛くなる」 軽く吐き出された其れとは裏腹に低く呟くような言葉に重なるように、部室の外から手塚の怒鳴り声が響いて、室内にいた堀尾たち 3人は条件反射のようにびくりと身体を振るわせた。 対して、リョーマは其の内容に眉を顰めるとひっそりと溜め息をついた。 「・・・・・・聞かれてたか」 「不二!それと菊丸に乾!何をしているんだ。さっさと着替えて練習に掛からないか!」 「・・・君に言われないまでも分かってるよ。ちょっと黙っててくれない、手塚」 「何っ!?」 「っ、まぁまぁっ!手塚落ち着いて!今不二は混乱しているだけだから!」 「いったい何があったんだい?乾」 「あぁ大石。まぁとにかく中に入ろうか」 乾に促されて部室内に足を入れると半目で此方を睨んでくるリョーマの姿が飛び込んできた。 「先輩。立ち聞きなんて趣味悪いっすよ」 「何のことだ、越前」 不思議そうに問いかける手塚を押しのけて菊丸が慌てて弁解する。 「おちび〜、ごめんにゃっ!わざとじゃないんだけどね、つい」 「いや、あれはわざと以外の何ものでもないと思うが」 「ちょっと乾は黙っててよっ。まとまる話もまとまんねーじゃんかよ!」 「だから何がだ」 「あーっ、もう!手塚も黙っててっ!」 「何っ!?」 「まぁまぁ、皆落ち着いて」 憮然とするリョーマを菊丸は宥めようとしたのだが、乾が飄々とした態度で意図しない風に引っ掻き回す。 更に、蚊帳の外に置かれた手塚が憤慨しながら口を挟む其れに、頭に血を昇らせた菊丸を落ち着かせようと、見かねた大石が口を出すが効果は無く、彼らは再度揉め出してしまった。 混乱する場を我関せずとすり抜けるようにして不二はリョーマの側に寄ってくるとにっこりと笑いかけた。 「越前。僕は今、心が張り裂けんばかりだよ。君を今も苦しめ続ける憎っくき奴はいったい誰かな」 「いや、不二先輩の知らない人だし、第一もう済んだ事ですから」 「でも、今も思い出すだけで君の小さな心が軋んだ悲鳴をあげると云うんでしょう?」 「そんなこと言ってないと思うんスけど・・・」 「この際言い方なんか問題じゃないよ。 其の事実と今もまだそいつがのうのうと生きているということが問題なんだ」 「・・・消す気かよ」 手塚と言い争っていたはずの菊丸も、不二の今の発言は流石に聞き逃すことが出来なかったらしく、ぽつりと洩らした。 物騒な発言への菊丸の突っ込みは聞こえなかったことにして、とりあえず目の前で怒りの笑みをたたえる不二を何とかしようと溜め息をつきながら言う。 「だから。先輩の知らない人だから。・・・それに今も生きているかどうか分かんないし。もしかしたら死んでるかもね、安心してよ」 真顔で呟くと、是で話は終わりと云わんばかりに、赤いラケットを片手にひらりと出て行ってしまった。 後に残された面々は不二が放つ嫌な空気で室内が埋め尽くされるのをひしひしと感じながら、今日は部活にならないかもしれないと天を仰いだ。 実際其の日はどこか上の空で練習をこなすリョーマと、全開の笑顔でもって怒りをぶつけるように練習相手を叩きのめす不二にお手上げ状態で、手塚はいつもより早めに号令をかけて切り上げざるをえなくなった。 部室内に漂う重い空気に追い出されるように先を争って部員たちが出て行ってしまうと、中には素知らぬ顔をしたレギュラーメンバーが取り残された。 時おり此方を見る不二のうそ臭い笑顔など気にもせずにリョーマは淡々と着替えを済ませ身体に似合わない大きなテニスバックを 肩に掛けると小さく礼をして部屋を出て行こうとする。 しかし其れを許す不二では、当然、ない。 「越前。ちょっと話があるから残ってくれるかな?」 相手に判断を委ねる問いかけだが、其の実逃げることを許さない口調に、面倒臭い予感がひしひしとしてリョーマは溜め息をつきながらも、振り返ることで承諾の意味を表した。 この後の成り行きに後ろ髪を引かれつつも、犬も喰わない痴話喧嘩に巻き込まれないようにと残っていたレギュラーメンバーも部室を出て行き、中には不二とリョーマだけが残され、騒がしかった部室も静まり返る。 「それで?話って何デスか?」 分かりきっていたのだが、最後の無駄な抵抗として憮然としながらリョーマが沈黙を先に破ると、不二は珍しく言い澱んだふうに話し出す。 「別に僕も君と付き合うのが初めてと云う訳じゃないし、過去のことをあれこれ言うのは好きじゃない。でも君のことは何でも知っておきたいんだ。 せめてどんな人だったか教えてくれないかな」 不二の常らしくない言葉にリョーマは目を見張る。 先ほどのようにふざけた口調で問い詰められたら、のらりくらりと此方も負けずに言い返して有耶無耶にしてしまおうと考えていたのだが、今の不二は笑顔だけれども至極真面目な瞳をして見つめてくる。 リョーマは普段のうそ臭い笑みは余り好きではなかったが、たまに見せるこういった顔は酷く好ましくて何だかドキリとさせられる。 もちろん本人には言うつもりなどないが。言ったら最後調子に乗るのは目に見えているのだから。 それに不二にも言ったとおり、もう済んだ事、過去の事なので、別に言っても構わないのだ。 ただ、思い出すとちくりと胸の何処かが痛むだけで、今はもう其の人ではない別の人を想うのに必死なのだから。 何から言うべきなのか、近くに在るベンチに腰かけ、うろと視線を彷徨わすと一呼吸おいて話し出す。 「…其の人はけっこう年の離れた人で、すごくテニスの巧い人だった。親父以外にテニスで初めて負けた。 それでたまに親父のところに遊びに来た其の人にテニスを教えてもらうようになって」 不二が、リョーマと並んでベンチに腰掛けるのを横目で見ながら話を続ける。 「親以外で初めてあんなに近くに来た大人は初めてだった。だからかな、特別な想いを持つようになったのは。それで其れを恋と勘違いしたのかもしれない」 「・・・恋じゃなかったの?」 「分かんない。でもアノ人はそう思ったから告白しても真面目に向き合ってもくれなかったんじゃないかな」 「ふーん・・」 「それで終わり。其の人も忙しくなったみたいで、あんまり親父のところにも顔を見せなくなったから、自然と会う機会も無くなったし。今はどうしてるかは知らない」 「そうなんだ・・・」 それきりどちらも言葉を発しないまま、部屋に落ちる沈黙に居心地が悪くなったように、 リョーマがもぞりと身体を動かすと、不二が口を開いた。 「…本当に、恋、じゃなかったの?」 「……どうだろうね。分かんない。でもアノ人と居るとき感じるのは、いつも blueだった」 「青?…憂鬱ってこと?」 「ううん。そういうんじゃなくて。単に青色」 其れは例えるなら ――― blue rose 綺麗だけれども冷えた感じの色の花は不可能を表すと云う。 自分の必死の告白を沈痛な面持ちで断った相手は元より、当の自分もこの想いが実を結ぶことはないと漠然と感じていたから。 結局は花開くことさえなく蕾のまま散ってしまったのだが。 だから断られたときも大きな衝撃は受けなかったように思う。堀尾が言ったような天と地が引っくり返るような衝撃は。 ただ、其れは後からじわりと侵食してきてはじくじくと痛みを訴えた。 深い傷は癒える速度も遅く、しばらくは鬱蒼と傷を抱えるしかなかったが、一家揃って日本に住いを移すことが決まったときには、時おり思い出したようにちくりと其の存在を主張するだけだった。 そして此処で貴方に出逢って。 恋におちた。 「不二先輩は赤ってかんじ」 「僕が赤?そんなこと言われたの初めてだよ」 「そう?」 「うん、ピンクが似合いそうって言われたことはあるけど」 「・・・それこそ違うと思いマス」 「そうかなー。可愛らしいピンクはそれこそ可愛らしい僕にピッタリだと思うんだけど。それで何で赤なの?」 普段の調子に戻ったかのようにふざけたことを口にしながらも、不思議そうに問いかける不二を、呆れつつもちろりと見るとリョーマはニッと蠱惑的な笑みを赤い唇に浮かべた。 「・・・秘密」 ――――貴方は、red rose 棘だらけの野薔薇は近づこうとするこの身を傷つけるけれど、其処から流れる赤い血は自分の存在を確かに感じさせてくれるものだから。互いの血で真っ赤に染まった薔薇は情熱的でしょう? 全てを焼き尽くすような感覚は貴方とじゃなきゃ味わえない。 恋に堕ちるというなら、自身が破滅するくらい全てを掛けた本気でないと嘘だと思う。 アノ人との関係は穏やかな海のようなものだった。 其れは確かに、たゆたうようで心地よいものだったけれど、きっと自分は傷だらけになりながら野を駆けることを求めて其処から飛び出すだろうことは今なら容易に想像できた。 あの頃は今よりもっと子供で、自分のことも周りのことも見えていなかったけれど。 今なら、アノ人が浮かべた苦しそうな笑みの意味も何となく分かるような気がする。 アノ人は大人で、自分なんかよりもずっと全てのことをよく分かっていた。 盲目的な恋をするには、きっと、アノ人は色んなことを知りすぎていたから。 時が経った今でも、あの穏やかな日々を思い出すと胸の奥が少しだけ苦しくなるけれど。 今は、目の前にいるこの敵を倒すのに必死で、寂寥と共に思い出が入り込む余地すら微塵も無い。 少しでも隙を見せたら引っくり返されてしまう、このゲームは酷く刺激的でスリリング。 このくらいの関係が自分にはちょうど良い。 不可解な顔をして、何だか僕誤魔化されて無い?納得いかないなぁと洩らす愛しい恋人に、不敵な笑みでヒントを一つ。 其れは殆ど答えのようなものだったけれど。 「今はアンタに夢中、ってことだよ」 |
2004/08/07 |
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