貴方との間には深くて暗い川がある 其れは、 天の河 |
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夜に浮かぶ笹の船 | ||
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日本では毎年この時期になるとあちらこちらで笹の葉が揺れる光景が見られるようになる。 すでに7月に入ったと言うのに梅雨の時期はまだ終わっておらず時折思い出したように強い風と共に雨が訪れた。 しかし今日はその合間を縫ったように突き抜けるような晴天が広がっており拭っても拭っても汗が滲み出てくるような暑さだ。 例にもれず学内の片隅に位置する食堂に飾られた笹を見て、出かけに従姉妹が言っていた言葉を思い出す。 「よかったわ、七夕の日に雨が降らなくて。最近雨が続いてたから大丈夫かしらって思ってたの」 「・・・なんで雨が降らないといいわけ?」 「あら。ふふ、リョーマさんはこっちに帰ってきたばかりだから知らないのね。今日7月7日は七夕の日でね、彦星様と織姫様が一年に一度だけ逢える日なの。でも雨が降ってしまうと2人が逢うことはできなくなるのよ」 「彦星と織姫?」 「中国に伝わる言い伝えなの」 「・・・ここ日本じゃなかったっけ?」 「ふふ、ロマンチックだからいいのよ。もっとも日本では七夕は願い事を書いた短冊を笹に吊るす行事になってるけどね」 「笹に吊るすだけで願いことが叶うってわけ・・・?他力本願もいいとこだね」 「もう。リョーマさんったら!夢が無いんだから。いいのよ要は気の持ちようみたいなものなんだから!」 「・・・行ってキマス」 ロマンチックな気分に浸っていた様子の彼女だったがリョーマの言葉から段々と機嫌が降下してきたのを感じたリョーマは早々に退散することにして家から飛び出した。 恐いもの知らずのリョーマではあったが、不思議と母と従姉妹にだけはそれが通用しないことを自分でも十分すぎるほどに分かっていたので。 「・・・確かに」 それほど大きくないとは言え十分に存在感はある笹の前に立ち上に目をやると、至る所に長方形の色とりどりの紙が飾られており、そこには何やら文字が書かれているようだった。 「赤点だけはまぬがれますように。・・・何コレ」 其の他の短冊にも『今年こそは絶対に優勝したい』だの『高校に無事受かりますように』だの書かれているのが見えた。 ひらひらと楽しそうに揺れる短冊から指を離すとリョーマはひっそりと暗い笑みを浮かべる。 ――本当に他力本願もいいところだ。 こんな紙切れ一枚に書いたところで願いが叶うわけも無いのだから。 不確かなものにすがって祈るくらいなら其の分努力したほうが幾らかましなものを。 そう。 結局は本人が何かしない限り、永遠に何も動かないのだ。 奇跡など起こりうるはずもないことなど自分が一番よく分かっている。 こんなもので願いが叶うというのならば自分はそれこそ何十枚、何百枚と書き綴るだろう。 決して叶わないことを知っている願い事を、それこそ何万回と祈るように。 放課後、誰もいない静まりかえった図書館でリョーマは欠伸を漏らした。 いつものことだが此処に訪れる者は殆どいないと言ってもさしつかえなかった。 この時間は部活動が在る時間で仮にも文武両道を謳っている青学では殆どの者が自分の部活に精を出しているため当然図書館に来る者はいなかった。 受験生である3年生もこの時期はまだ引退していないため勉強しに訪れる者もいない。 カランとした空間をどこか落ちそうな眠たげな瞳で見回し、閉めちゃえばいいのにと呟く。 退屈そうにゆっくりと辺りを見回していた視線がある一角で止まった。 そこは季節ごとにレイアウトをとりどりに変えるコーナーで、司書の先生がやたら張り切って作っていたのを思い出す。 もっともあまり足を止めるような生徒は居らず教師の労力が報われている様子はなかったが。 折しも今回は七夕についての展示となっているようで、学食にあったような大きなものではないが緑も鮮やかな瑞々しい可愛らしい笹とともに数冊の本が並べられてあった。 このまま此処で座っていたら確実に寝てしまいそうな予感があったので立ち上がってそのうちの一つを手に取ると、読むともなしにパラパラと中を捲った。 どちらかといえば挿絵が主と言ってもいいような其れを眺めていると、異国の着物を纏った男女が手を取り合う絵が描かれた頁が表れる。 よくよく目を凝らすと男女の足元にある黒い川だと思ったものは幾つもの星が散りばめられて出来ているのだと分かった。 「…なるほど。こういう話なワケね」 ざっと全ての頁に目を通すと、従姉妹には申し訳ないが今朝交わした会話だけでは理解は十分ではなかった七夕とやらがリョーマにもやっと呑み込めた。 もう一度先ほどの織姫と彦星が描かれた頁を開いて苦笑する。 オリヒメとヒコボシとやらも可哀相に。 此処ではアンタらのことなんかこれっぽっちも考えられちゃいないようだよ。 学食の笹に吊るされていた自分勝手な願い事ばかり書かれた短冊を思い返す。 手を取り合って愛しそうに互いを見詰め合う2人。 …けれど、1年に1度しか逢えないなんて本当に恋人といえるのだろうか。 到底自分には耐えられそうも無い。 ――例え、ココロが繋がっていなくとも。それでも、側にいたいと望んでしまう自分には。 幸福そうに見詰め合う恋人たちの足元に広がる広くて暗い川をぼんやりと見つめ、まるで自分たちの間に微かに存在する距離のようだと思う。 自分とあのヒトとの間に存在する距離のようだ――と。 それなら、1年に1度しか逢えないけれど心はしっかりと通じ合っているだろう恋人たちと、確かに近くに居るのに決してその心は繋がることの無い自分たちとどちらが幸せなのだろうか。 たぶん、きっと。 殆どの人は織姫と彦星のほうが幸せだ、と答えるに違いない。 幸せそうな2人から視線を外し、窓の外へと移した。 物音一つしない静かな此処とは違って活気が溢れているであろうグラウンドの一角にあるテニスコートにいる其の人がすぐに視界に飛び込んできた。 別に探したわけでもないのにあの、綺麗な笑みを浮かべる優美な姿だけを自分は一番に見つけてしまうのだ。 あの人がどうして自分を選んでくれたかなんて知らない。知りたくも無い。 けれど、例えあの人が自分のことを好きでも何とも無くとも。 その意志で一度自分のこの手を取ってしまったのだからもう決して離してなんかやらない。 例えあの人が誰を想っていても自分には関係の無いことだ。 ただ、一番近くにいるのが自分である、という事実さえあればそれでいい。 例え、2人の間に決して越えられない深くて暗い川が確かに存在しようとも。 そんなもの関係ない。 川があると言うのなら笹を引き千切り、其れで船を造ってあの人の元へ行けばいいだけのこと。 それで露も知らない他人の願いが散ろうとも知ったことではない。 ―――必要なのは側に貴方がいることだけなのだから。 「いったい今日はどうしたのかな。いつになく激しかったね」 「…たまにはイイでしょ」 「僕としては毎日でもいいんだけど」 情事の後の気だるい空気が薄暗い部屋中に漂う中、ベッドの上でぴったりと肌を寄せ合いながら小さく言葉を交わす。 図書委員の仕事を終えたリョーマは何時ものように不二と共に彼の家へと向い、2人の外には誰もいないそこで何時もの如く抱き合ったところだった。 情事の後の睦言を何時もの如く交わす。 他愛も無い其れらは恋人同士の時間を甘くするはずのものであったが、2人の雰囲気はどこか余所余所しくも感じられるものだった。 「そういえば今日は七夕だったね」 窓の外に広がる黒く澄み渡った夜空に散りばめられた小さく輝く幾千もの星を眺めながら不二が呟いた。 「…もしも越前が1年に1度しか恋人に逢えないとしたらどうする?」 ふと思いついたかのように悪戯めいた甘く光る瞳で覗き込まれ、ふいに胸の奥が締め付けられるのを感じた。 否応無く、この綺麗な人が好きなことを自覚させられる。 それを誤魔化すかのように興味がない顔を装って素っ気無く返した。 「別れる」 「ふふ、越前らしいね」 「アンタは?」 「ん?」 「不二先輩ならどうするの?」 「そうだなぁ。・・・僕なら鎖で繋ぎ止めてでも決して離したりなんかしないよ」 「・・・アンタらしいね」 決して褒めたつもりは無いのに、ありがと、なんて笑顔で返してくる不二に呆れ、リョーマは寝返りをうつといい匂いのする感触の非常に良い枕に顔を埋めた。 しばらくすると規則正しい寝息が小さく聞こえてきて不二は首を傾けた。 「越前・・・。――リョーマ、くん?寝ちゃったの?」 不二の小さな、けれど確かな問いかけにもスース―と言う可愛らしい寝息が返ってくるだけでリョーマからの反応は全くない。 完全に寝入ってしまったようだ。 もともと寝入りが良く、眠りも非常に深いリョーマはちょっとのことでは決して起きることは無い。 ギシ・・・と軋む音をたてながらベッドの上に突いた手を沈ませながら、不二は眠るリョーマの顔を覗き込む。 平生開かれている時は黒く冴え冴えと澄み渡っていながらも奥底が見えないような双眸は、今はゆるく閉じられ、瞳のせいか普段はきつくも感じさせる表情はどこかあどけない。 しかし、いくらその瞳を隠しても尚、内面からの放たれる生命の輝きは溢れんばかりで到底隠しようも無い。 その綺麗な横顔を見つめる不二の瞳は、まるで夜空をそのまま写し取ったかのように暗いもので、いったい何を考えているのか想像もつかない。 いっそ無表情にも見える顔で、けれど確かに口元だけで笑いながら小さく呟く。 「――いくら君が僕から離れようとしても決して許さないよ。君は僕の、僕だけのものだ」 夜空を覆い隠さんばかりの星々を背景にしてさらさらと笹の葉が揺れる。 例え、幾千もの星の川が互いの間に存在しようとも それでも確かに、夜の波を漂う2人は幸せなのだ 他の誰が何と言おうとも―― |
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2004/07/07 |