「・・・エージ先輩、重い」


それは一種異様な光景でもあり、また見慣れた日常の光景でもあった。
菊丸がリョーマにべったりくっついて離れない。



猫と魚



日頃から菊丸はリョーマを見つけては駆け寄り抱きつく、 というリョーマにとっては迷惑極まりない行為を繰り返しているのだが、今日は少しだけ菊丸の様子が違っていた。
朝練が始まろうとする時間ぎりぎりにコートに現れたかと思うとリョーマに抱きつき顔を埋めたまま離れようとはしないのだ。
今日も今日とてリョーマの姿をコートで見つけるなり菊丸はぎゅっと小さく華奢な身体を抱きしめたのだが、 その手触りのよい甘い香りのする艶やかな黒髪に顔を埋めたまま離そうとせずにじっとしている。

当然それを快く思わないのは青学テニス部の面々だった。
思いに差こそあれ、顔貌は精巧に造られた人形のように整っていて生来持ったその気の強ささえも可愛くてしかたのないリョーマを 気にかけている者は多いのだ。
コート上にどこか険悪なムードが流れる。
見かねた気配りやで気苦労の多い大石がこのムードを何とかしようとパートナーである菊丸に それとなく離れるように促すのだが当の菊丸はうんともすんとも言わず梃子でも離れまいと言うオーラを出している。

「ねぇ、重いんスけど。イイ加減離れてクダサイ」
「・・・やだもん」


「・・・やだもん、じゃないよ、英二。すぐさまリョーマくんから離れないとどうなるか、よくわかってるよね?」


にこやかな口調で、しかしあからさまに不機嫌な雰囲気を漂わせながらコートに流麗な立ち姿を現したのは不二周助その人である。
リョーマの恋人としてやんわりと、しかし強烈に日々周りに牽制を強いている不二にしては行動が遅いと思ったら、 珍しくも今朝は少し遅れてきたようだ。
そしてコートに菊丸と捕らわれて動けないリョーマの姿を見つけ、背中から立ち上る菊丸への怒りを隠そうともせずに声をかけたのである。その表情たるや、かろうじて口元にいつもの笑みを浮かべてはいるものの目は全く笑っていないという恐ろしいものだった。
リョーマに関しては独占欲を微塵も隠そうとはしない不二は何人たりとも他人がリョーマに少しでも触れるのを許さない。
それは菊丸に関しても当然言えることで、ことあることにリョーマに抱きつこうとするこの赤毛の同級生を日々こらしめるのに余念がない。余念はないのだが学習能力が皆無なのか懲りると言うことを知らない菊丸はリョーマ本人に 虐げられようともどんなに不二に酷い目にあわされようともリョーマに抱きつくのを止めようとはしなかった。
今日こそはこの男を本当にどうしてくれようか、と鬼もかくやの憤怒の表情を浮かべた不二に周囲は蒼白となる。
菊丸も同じクラスというありがたくもない縁のおかげで不二の恐ろしさは身にしみてわかっているので、 普段ならこの辺で「っ、冗談にゃー!」とかなんとか誤魔化しながらおとなしくリョーマから手を離すのだが。

しかし今日は違っていた。

「やだ」

「・・・英二?」
「いやなもんはいや!」

にっこりと笑いながらも黒いオーラで威圧した不二に対しても菊丸は頑なな態度で跳ね返し、 リョーマの黒髪にさらに強く顔を埋め、ぎゅっと抱きしめた。
その瞬間、不二の周りがさらに冷え渡り、暗黒の雲が漂い始めるのをコート上に運悪くも居合わせてしまった全員が否応無く肌で感じた。
不二の強い怒りを感じた青学メンバーは火の粉が降りかかるのを恐れるかのように菊丸を必死で引き剥がしにかかろうとした、そのとき。

菊丸に抱きつかれたまま、苦しそうにしながらもじっと動かなかったリョーマが静かに口を開いた。
「すみません。もう少しこのままでお願いシマス」
「っ!リョーマくん!?」


「・・・エージ先輩今日はいったいどーしたんでスか」
リョーマからの静止の言葉を聞いた途端眉を跳ね上げ、怒りをあらわにする不二にも全く頓着することなく、 リョーマは菊丸へとそっと優しく声をかけた。
それも不二に更なる怒りを注ぐ一因となる。
狭量と言われようと不二にとってリョーマが意識を向ける自分以外の全てのものが嫉妬の対象となるのだ。その綺麗な双眸を自分以外に向けるだけでも許せないのに、自分にすら滅多にかけてくれないような可愛らしい柔らかい声を 菊丸なんかにかけたのだ。さらに不二の温度が下がった。


「・・・」
菊丸はリョーマから優しくかけられた言葉にようやく顔を上げたかと思うと何事かリョーマの耳元で囁いた。その親密な雰囲気に不二の怒りが急激に上がり、それに比例してさらに周囲の温度が下がる。
リョーマは菊丸の言葉を表情を変えることなく静かに聞いていたが、ふいにその綺麗な目元を優しく和らげた。今まで見たことのない柔らかく艶のある貌にコートで一部始終を眺めていた者は目を奪われる。
そしてリョーマの次の行動にさらに驚くことになる。
あの傍若無人を絵に描いたような他人にまったく気を使わないリョーマが、まるで菊丸を労るかのように跳ねた赤毛をそっと優しく撫でたのだ。
それだけでも許しがたいというのに、慈愛の感じさせるような綺麗な表情を浮かべたリョーマは、ふにゃと情けない顔を上げた菊丸の頬に可愛らしく軽くキスを落とした。



「・・・っ!?リョーマ君!!!」


その瞬間ものすごい勢いとものすごい表情でもって不二が菊丸からリョーマを引き剥がした。
「僕と言うものがありながらリョーマ君どうして!?どうして僕以外の男なんかにその可愛らしい唇でキスするの!?」
珍しくもリョーマに対しての怒りをあらわにして、突然視界が不二でいっぱいになり驚いた顔をしているリョーマに詰め寄る。
「・・・だってリョウタが死んじゃったってエージ先輩が言うから」
だからなぐさめてあげた、とけろりと言ってのけるリョーマに自分が悪いと思っている様子は欠片もなく、何処かあどけなくも見える表情に、不二はもはやそれ以上何も言うことができずがっくりと肩を落とした。

「だからって・・・」
「だって不二先輩も知ってるでしょ?エージ先輩がリョウタをものすごくカワイがってたの」

知ってるけど、そりゃリョーマ君と一緒に見に行ったこともあるし、エージが柄にも無く大切に可愛がっているのを見たこともあるけれど。
…だからって、リョーマ君がキスまでしてあげること、ないんじゃない?

そう言いたいのを不二が必死にこらえている様子がありありと窺える。
周りで呆然と見ていた面々だったがリョーマの口から零れた言葉にやっと反応をみせた。

「リョウタって・・・」
「あの、真っ黒な出目金のことか・・・?」



菊丸が一匹の金魚を大事に飼っていることは本人の口から無理やりにでも聞かされていたので 菊丸の周りにいる大抵の人は知りたくなくても「リョウタ」のことを知っていた。
その可愛がりようといえばまるで家族へ対するようなもので、たかが金魚だろうが、と口を滑らしたばかりに菊丸からものすごい反撃にあった者もいるくらいだ。
そのリョウタが死んだというのだ。
今朝現れた菊丸の悄然とした様子も頷ける。
・・・リョーマにべったり抱きついて離れなかったことには納得いかないが。


そんなに悲しいのならダブルスのパートナーで親友でもある大石あたりに泣きつけばいいのに、と私怨を多大に含ませて誰もがそう考えた。
リョーマを愛してやまない不二がその考えに至るのは当然のことであるともいえる。


「英二、僕のリョーマ君に纏わりつかないで愛しの大石にでも慰めてもらえばいいんじゃないの?」
「・・・だっておちびくらいだもん。リョウタが綺麗だって褒めてくれたの。大石は自分の熱帯魚のほうが可愛いって言ってたもん」

「・・・大石」
君って男はなんてことを言ってくれたのかなと、顔面蒼白になった大石にゆらりと青い炎を立ち上らせるように不二が威圧する。
今の不二にとっては的外れだと言われようともリョーマ以外の全てのものが怒りをぶつける対象とほかならない。

「っ!?いや!!そんなこと言った覚えはないぞっ!」
「ほら英二、大石はそんなことないって言ってるよ?リョウタが他のどの魚より一番綺麗だったって。
・・・だからリョーマ君から離れてくれるよね・・・?」
「・・・いや」

不二が大石へと意識を向けているうちに菊丸はいつのまにか両腕にリョーマを再び捕えて先ほどの状態へと戻っていたのだ。
一度ならず二度までも、と憤懣この上ない不二に、しかし菊丸はがんとしてリョーマを離そうとはしない。


しばらく2人の睨み合いが続いた。
こうなったら力づくでも引き剥がすしかない・・・。できれば菊丸が大人しく自分から手を離すように仕向けたかったのだが、これ以上リョーマに自分以外の誰かが触れているこの状況に不二は耐えられそうもなかった。
不二の手が菊丸へと伸びる。


「不二先輩、ストップ」
「リョーマ君?」
「なんだかちょっとエージ先輩が可哀想だし、今日くらいはこのままで許してあげることにシマス」
「・・・っでもね、リョーマく、」
「ほら!エージ先輩、さっさと練習しますよ?」

それ以上不二に反論を許さないかのように、リョーマは背中にへばりついた菊丸を引きずってコートへと入り、ご親切にもラケットを持たせてあげると菊丸と打ち合いを始めてしまった。
残されたのは呆然とコート脇に佇む青学男子テニスの面々。
真っ白になったまま彼らだったが、フフという低い笑い声が聞こえてハッと正気に戻る。
見れば黒い笑みを浮かべる不二の姿。
「・・・ふふ、どうしてくれようかな、英二。・・・リョーマ君も今夜が楽しみだね」
全く目は笑っていないけれども口元には笑みを浮かべたまま一人呟く不二を遠巻きに見ながら越前、それからついでに菊丸も無事でいてくれ・・・と祈るばかりの青学男子テニス部であった。




次の日、どこか気だるげな表情でヨロヨロになりながらも不二に対して怒りを撒き散らすリョーマと、うってかわってご機嫌な不二の姿が見られたと言う。




2004/07/01





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