「…来ちゃった」


扉を開けたままの姿勢で固まる手塚の視線の先で
悪戯そうに黒い瞳を光らせて小さなコイビトが笑った。




あなたと交わす、最後の約束



「はい。大石先輩から部長に。今までの大会の記録を収めたビデオやアルバムとそれから熱帯魚の写真集。乾先輩からは手塚専用スペシャル乾酒リミックスバージョンU、らしい。そんでコレは不二先輩。君の大好きなモノをあげるからコレで一人でも大丈夫だね、きっと淋しいって泣くこともなくなるよ、…だそうデス。海堂先輩はハンカチだって。菊丸先輩と桃先輩からはDVD。えーと…、『女だらけの水泳大会』『女教師の誘惑』『引き裂かれたナース服』…」



玄関先にて。呆然と佇む手塚を前に、リョーマは重そうに引きずってきた大きな荷物から次々に品物を取り出しては淡々と説明を加えていく。
その淀みの無い手付きと滑らかな口調に手塚が口を挟む隙は全くない。
といっても突然自分の家へと姿を現した彼の幼い恋人にいまだ混乱しきっていた手塚はかけるべき言葉が見つかっていなかったので例えその隙があったとしても全く意味をなさなかったが。
現在の時刻は午前9時30分を過ぎようとしたばかり。
朝として決して早すぎる時間ではないが、それでもよその家にお邪魔する時間にしては好ましいとはいえなかった。それも事前に主人に告げることもしないで。
いや、そんなことより、ここは彼が住む東京都とは遠く離れた場所なのだ。彼の存在が手塚のいる此処、宮崎にあることがおかしかった。
冷静な表情の下で混乱する考えを整理しようと試みていた手塚は、そこで考えるのを諦めて深く溜め息をついた。
彼のトレードマークともいうべき眉間の皺は今や更に深いものとなっていて、見るも痛ましかった。

「リョーマ、お前というやつは…。…学校を、サボったな」
「…あ、バレた?」

木曜日の午前中である今頃の時間は、義務教育期間中である中学生はほとんどの者が学校にて着席していなければならないはずで、それは目の前でぺろりと舌を出して笑うリョーマとて勿論例外ではない。
同じく中学生である手塚が平日のこの時間に家にいるのは療養中の身であるという理由からでしかなかった。
出席日数は足りているため卒業条件は満たしており尚且つ決まった時間に講師から勉強を教えてもらって更に自力でも十分に学習を行なえるという判断を与えられた手塚だからこその特別な処置である。
病気でもなければ例えば忌引きなどという公式な理由もないのに平気で学校を休んだ、生徒会長を兼任していた手塚にしてみたら暴挙とも呼ぶべき行いだ、当の本人はけろりとしていて全く反省するような気配は見られない。
思わず額を押さえてしまった手塚にリョーマは頬を膨らませて可愛らしくも抗議を示した。

「だって、しかたないデショ!?…今日は、アンタの誕生日じゃん」

上目遣いに睨んだ彼は、だから、わざわざこんな遠い所まで来たのだ、と、全ては恋人である手塚を想っての行為だ、と怒りを露わにした。
なのに、そんなに怒ることないじゃん…と段々小さくなる語尾に慌てて手塚はその黒髪に手を伸ばした。
その悲しむ仕種が演技である可能性は多分にあったが、それでも愛しい存在が淋しそうな表情で項垂れる姿など見たくはなかった。
それでなくてもこの小さな恋人に会うのは本当に久しぶりのことなのだから。自分の前で笑っていてほしい気持ちは尚更大きい。


あぁ、この感触も随分と味わっていなかった、と微かに頬を弛めて手塚は、天使のわっかを乗せて艶々と輝く漆黒を不器用な手付きで撫で続ける。
手塚の、無骨だけれども、優しくて酷く懐かしい掌の動きに、リョーマも嬉しそうな表情を浮かべて瞳を閉じた。
今にも喉を鳴らしそうな、満足したちいちゃな猫のようなリョーマの顔を手塚はまじまじと見つめる。
当初の驚愕や当惑、呆れの感情はなりを潜め、その代わりにじわじわと胸に愛しさが染み渡ってきて。
両腕を伸ばして、ぎゅうと目の前の小さな存在を腕にきつく抱きしめた。
ソレは腕の中にしっくりと収まる丁度良い大きさ。とても慣れた。自分の身体の一部が今まで欠けていた、のだと思うくらいに。

…本当に。彼は、今、自分の側に居る。それもこれ以上はないというくらい一番近くに、だ。


全身を痛いほど強く手塚に抱きとめられて、リョーマは息苦しさではない感情から大きく口を開けて呼吸を吐き出した。
苦しいほどに全身で自分を求めてくる恋人と同じように、自分だって彼に会いたくて逢いたくてたまらなかったのだから。
だから学校を休んでまでして、こんな遠い場所まで一人でやってきたのだ。
何かを耐えるように大きく息を吸い込むとリョーマは震える両手で手塚の背中へときつく抱きついて目を閉じた。

ようやく、あえた…。


カレンダーを見つめ続けて刻一刻と近づいてくる日付にもんもんとしながら過ごしていた日々を思い出す。
共に過ごしたあの場所で、ふたり、約束を交わしたあの場所で、いってらっしゃい、と旅立つ手塚を見送ってから、それから結局一度も会うことはなかった。
手塚は仮の一時帰宅も自身に許そうとはしなかったし、リョーマも手塚のいる場所まで赴くことなど決してしなかったから。結局逢うことなど、なかった。
けれど、ついにひとりきりで耐えることはリョーマには叶わなくて。
手塚のいない日常に、慣れてきたと思っていたけれど、だけど逢いたい気持ちはいつだって消えないのだから。
だから、せめて手塚の生まれた日くらいは、手塚のいない日常から逸脱してもいいだろう、と。
そう決めたのはつい昨日のことだったので手塚にも先輩たちにも何も告げないままでいたのだが。
もっとも先輩たちには見抜かれていたようで。昨夜押しかけてきた彼らに無理やり荷物を押し付けられた。




そうしてお互い何も口に出さず、長い間抱き合っていた彼らは、カンカンと金属音を鳴らしながら軽快に鉄階段を下りていく足音にはっとして、顔を見合わせる。
そして照れくさそうに微笑み、そっと顔を近寄らせて羽毛に触れるような優しい口付けを交わした後、また笑い合って、そっと囁き合った。



「…おかえりなさい」
「あぁ、…ただいま」



それはふたりが交わす一番初めの挨拶。
腕の中へと戻った恋人に交わす、最初の。


其れは遠く離れることが決まった手塚にリョーマがお願いした、最初で最後の約束だった―――










決して広いとはいえない一人用の台所からは今、トントンと軽やかに包丁が音を立てている。
パタパタと小さな足音を立てながら、リョーマはコンロへ流し台へと忙しく駆け回る。
その慣れた手付きを見ながら手塚はまだ読んでいなかった今日配達された朝刊へと手を伸ばした。

決して手塚は心配性な性質ではない、と自分で思っている。
ただリョーマが今まで一度も料理をする姿などお目にかかったことがなかったので、少しだけ不安になっただけで。
用もないのに、のそりと台所に顔を出す手塚にリョーマも初めは我慢していたのだが、大して気が長いわけでもなく寛容な性格でもない彼は、三度目に心配げな顔を見せた手塚にとうとうかんしゃく玉を破裂させることとなったのだった。
アンタ、オレをいったい何だと思ってンの?包丁の使い方もワカンナイようなガキだとでも思ってんじゃあないだろうね!?と肩を怒らせるリョーマは、さらに冷たい表情でもって、タダでさえ狭い台所だっていうのに、デカイ図体のアンタがいたら余計にせまっくるしいの、と言い放ち、手塚に台所への出入り禁止を言い渡したのだった。
リョーマが包丁を握ったことがあると露とも思わなかった、などという台詞を賢明にも自分の胸の内だけで呟いた手塚は、それでも時折心配そうに横目で台所の様子を窺っていたが。
手馴れた手付きで包丁を握っていたリョーマが鼻歌を小さく歌いながら、くるくると動き回るのを見、コトコトと湯気を上らせ始めた小さな鍋が良い匂いを漂わせるのを知ると、すっかり安心した様子でソファの上へと腰を下ろしたのだった。

ガサリと音を立てて新聞の丁度終いの面をめくった手塚は、それにしても、と考えながら、紙面に走らせていた視線を止めた。
その表情は鬱蒼と翳っていて暗いもの。それにしても。アレはいったいどういうつもりなんだ、と。
ちらりとその暗い視線の先にはおざなりに部屋の奥へと運びこまれた品物の数々。
先ほど玄関でリョーマが次々に取り出していた手塚への贈り物だった。
あいつら、いったいどういうつもりで…。
眉間に皺を寄せながらソレらを睨む手塚だったが、奴等の考えることなど分かりきっている。
あの食えない男達が考えることはいつだって一つしかないのだから。


「あとはゴハンが炊けるのを待つだけだよ。…?夢中になってナニ見てンの?」

暗い表情で転がった品物を見つめ続ける手塚の元へ、布巾で濡れた両手を拭きながら近寄ったリョーマは怪訝そうな顔をするが視線の先に気づくと納得した様子で頷く。

「すごいよねー。部長って実は人気あったんだね。青学だけじゃなくて他校の人たちまで持ってきてたんだよ?」

いつ渡せるかなんてわかんないだろうに。そう言って嬉しそうに笑ったリョーマは、恋人への誕生日プレゼントの数々に無邪気な顔をしている。
自分の恋人が人望のあるリッパな人物であることを素直に喜ぶ顔。
対して手塚の表情はめっきりとすぐれない。

「?ナニ暗い顔してんの。たまには素直に嬉しがるくらいしたら?…コレは跡部サンでしょー、アレは忍足サンから。ソレが千石サン。えーっと、ソッチが真田サンだったかな…。そんで切原サン柳生サン……」
「…もういい、リョーマ」

げっそりとして掌で顔を覆い、延々と続けられる名前を聞きたくないと言わんばかりに暗い声で止める手塚にリョーマは不思議そうな顔で見つめつつ、きちんとお礼言ったほうがいいンじゃないの?と呟く。
表情は変わらないながらもあまり乗り気ではないらしい様子の手塚を見て、意外と礼儀正しい面を持っているリョーマは眉をひそめたが。
これだけの人数に電話をかけたらスゴイお金かかっちゃうよね、なんなら会ったときにでもオレが代わりにお礼伝えとくケド、と彼にしては珍しく殊勝にも申し出た。
それはリハビリ中の手塚に余計な気苦労を背負わせたくはないというリョーマなりに恋人を想っての考えでもあった。
しかし、手塚は、それには及ばない大丈夫だ、と重苦しくも首を横に振って断る。
そう?と首を傾げながらリョーマは、あくまでも暗い雰囲気を身に纏ったままの手塚を心配そうに見ながら頷いた。

「まぁ、本人が直接お礼言ったほうがいいしね。…あっ、ゴハン炊けたみたい」

ぱたぱたと慌しげに台所へと駆けて行くリョーマの後姿を見送ってから、手塚は重苦しい溜め息を吐くとソファから立ち上がりクローゼットの扉を左右に開いた。
小さな空間は手塚の手によって整然と整理されており、スペースはまだ半分ほど残っている。そこに贈られたプレゼントを機械的に放り込み始める。
けばけばしいピンク色をしたうさぎのぬいぐるみを手にとった手塚は忌々しげに其れを睨んだ。何が、これでダイジョウブ、淋しくないよ、だ。
食えない笑みをはんなりとした柔和な顔立ちに浮かべる不二が脳裏に浮かぶ。
あいつはいつだって食えない男で厄介すぎるほど厄介なだけだった。
いや、あいつだけじゃない。こんなものをリョーマに持たせた奴等全てが、だ。
プレゼントの大部分が、其れらを贈られたコイビトの趣味を疑ってしまうような物ばかりで、手塚を貶めようとしたい意志だけがひしひしと強く感じられた。まるで怨念の如く。
手塚の誕生日を祝うような代物では、決して、なかった。ある意味、遠く離れた宮崎にいる手塚への挑戦状であり手の込んだ嫌がらせか。
他の包みが解かれていないプレゼントも中を見るまでもない。おそらく、きっと。多分にもれず、おかしな代物であることは間違いなかった。
今も昔も変わらず、いや、手塚の不在である今こそ更に多く強力に、敵が青学にも他校にも存在し虎視眈々と手塚とリョーマの仲を裂こうと狙っているという事実に、手塚は溜め息を禁じえなかった。
随分と魅力的な恋人を持つと不安の種はつきない。
眉間を深く刻んだまま多大なる不安を消すように彼にしては乱暴な手付きでバタンと大きな音を立てて扉を閉めた。



「あ、片付けてくれたんだ」

ことり、ことりと音を立てながらお盆から降ろした数々のお皿をリョーマは並べていく。
途端に机の上を占めていく料理の品々に、リョーマが怪我をしなければよいと実は料理の腕をそれほど期待していなかった手塚は目を見張った。

「すごいな」
「まぁね。母さんに教え込まれた。…ココ、コンロが一つしかなくて使いづらかったケド」
「一人暮らし用だからな」

仕方がないんだと苦笑を零す手塚に、まぁねとリョーマは軽く肩をすくめただけだった。
顔を突き合せるように座った二人は、いただきます、と行儀良く手を合わせてから、料理に手を伸ばし始める。
一口料理を口にする度に素直に、美味いな、と感想をもらす手塚に、リョーマは少しだけ表情を綻ばせて喜ぶ。
ほっとしたようなリョーマのはにかんだ笑みは、薄く紅に染まった頬も加わってとても愛らしかった。自然と手塚の顔も綻ぶ。
ふいに、あっ忘れてた、と小さく声を上げて台所へと向かったリョーマはお盆の上に小さな円筒形の茶碗を二つ運んできて、かろうじて空いていたスペースに置いた。

「まだ暑いから気をつけてね」
「…これは茶碗蒸、か?」
「そ、好きでしょ?」
「あぁ、好きだが。…しかし、俺よりむしろ、」
「うん、だから。オレが、好きでしょ?」

にっと笑って、リョーマはぱくりと上品な艶を出す黄色を口に入れる。
その言い分に苦笑を零してから手塚も同じようにいまだ十分に熱い茶碗蒸を口にする。
その微妙な味わいを舌に感じて微かに目を見張った。

「おんなじでしょ」

手塚の微妙な表情の変化に気づいたリョーマがふふ、と嬉しそうに笑う。

「…驚いたな、母の味と全く同じように思えるのだが」
「アタリマエ。同じだもん。彩菜サンに教えてもらったんだからね。
 味付け教えてもらったのは茶碗蒸だけ、だけどね。その他のは母さん直伝の味。
 …ね、どう?部長の口にチャンと合う?」

コレはとっても大事なコトだから、正直に言って、と酷く真剣な顔で箸をぎゅっと握りしめるリョーマ。
その冗談ではない深刻な様子を怪訝に思いながらも、手塚は率直にリョーマの手料理の感想を述べる。

「あぁ、不思議なくらいにな。それにお前が作ってくれたものは俺の好物ばかりだ」

本当に不思議に思うほど口にした味はどれも違和感はなかった。濃いということも薄いということもなく、丁度良い。
そして調べたのかと思うほどに手塚の好きなものばかりが並べられた食卓を初め見たときはその偶然に首を傾げたものだった。
手塚の正直な賛辞を聞いたリョーマは緊張していた白い頬に薄紅を散らしてホッと息をつき口元を弛めた。

「あー、よかった。これで一安心だね、オレたち」
「いったい何が一安心なんだ」
「あ、別に部長の好きなモノ、彩菜サンに聞いたわけじゃないよ。オレが好きなモノを作っただけデス」
「…そうか」
「ベツに、バカ親父の言うことを信じるわけじゃないんだけどね」
「は?」
「ただ、あんなどうしようでもない親父でも、母サンが別れようとしない理由を考えちゃうと、つい、ね」
「…お前はさっきから何の話をしているんだ。」
「『飯と床の相性がバッチリ合えば愛する二人の将来は安泰だ!』
 …その二つさえ合ってたら絶対別れることはないんだって。
 バカ親父が『だから俺と母さんは喧嘩が絶えない仲だが、今でも一緒に暮らしてんだ』とか言うの」
「…」
「で、部長とはセックスの相性はダイジョウブでしょ?それならあとはお互いの味覚が合えばいいだけだから」

でもコレでダイジョウブだって分かったから、とリョーマはしごくご満悦な様子でスプーンを口に運んだ。
機嫌良さそうに弧を描いたままの口元が好物の料理にさらに綺麗にカーブをつくるのを視界に捉えながら、手塚は彼の言い分に湧いた頭痛めいた目眩を抑えようとして意識しないまま額を押さえた。
時たま、いやかなりの頻度で自分の恋人が理解しがたい言動を繰り広げることには否でも慣れてきてはいたのだったが。いくら慣れたといっても、その度に感じる目眩は抑えきれそうにもないもので。
遠い目をしながら、以前会ったことのある恋人の父親を思い浮かべる。
豪胆にして気まま、突飛な考えを持ち、何事にも捕らわれそうにないような、そんな印象を受けた彼を目にして、あぁ自分の恋人は確かにこの人の血をしっかりと受け継いでいる…と思ったものだった。
いかにも南次郎さんが言いそうなことだ…と思いながらも、息子の前で妻との身体の相性はいいのだ、と包み隠さず話す父親はいかがなものだろうか、と眉をしかめて溜め息をついた。

「…何イヤそうな顔してるんスか。まさかアンタ、オレとケッコンしたくないとでもイウの?」

恋人としてそんな父親と仲良くやっていかなければならない、と自分の苦労を嘆いていた手塚の表情は疲れが漂うもので、当然それを目にしたリョーマは誤解をするしかない。今までの機嫌の良さそうな顔を一転させてぎっと下から睨みつけた。
…日本の法律では男同士で結婚は不可能だということは彼の意識にはなくむしろ関係のないことだった。

「まさか」
「それならイイケド」



拒否することなど思いもつかなかった、と恋人の疑念を否定する手塚に、リョーマはふふんと満足そうな笑みを零すと、そんなのアタリマエだ、とうそぶいて黄色いソレをぱくりと口に運んだ。













いつのまにか日が落ち、影よりも暗い闇がだんだんと迫ってくるのをふたりは背中ではねとばしつつ、細い小道を肩を並べ歩く。
空はすでに橙からグレーへと変わりつつあった。



幸せな時間はあっという間に過ぎるもの。
その不変の真理は平等にふたりにも落ちかかる。
手塚のいる場所へと降り立ったのは今朝のことであるのに、いつのまにかリョーマが戻らなければならない処へ帰る時間は刻一刻と近づいていた。
リョーマには明日も学校がある。それは決して曲げられようのないことだった、手塚にとっても、リョーマにとっても。
誕生日という特別な日に恋人に会いに行く、という愛し合う二人にとっては至極正当な理由も、明日は通用しない。
何も話さずに細い小道を肩を寄せるようにふたりは歩いていたが、あと数メートルも行けば大きな通りにぶつかる。
その大きな通りは大きな駅へとつながって。そして大きな駅は大きな都市へと沢山の人を送り込んでいく。リョーマと一緒に。
日常へとつながる道。手塚のいない日常へと。
朝は、ただ恋人に会いたいという気持ちだけで歩いてきた通りもあとわずかで終わりを告げる。


小さな通りと大きな通りを分断するように巨体を寝かす線路の前でリョーマは立ち止まった。
両手いっぱいに持っていた荷物も、もうない。


「…ココで、いいよ」


踏み切りを背に手塚へ振り向く。覆い被さるような夕闇を背負って微笑んだ。
ざわめきをかき消すような、電車の到来をつげる鐘の音がカンカンと辺り一面に鳴り響いていた。
ひっそりと口元に笑みを浮かべながら手塚を見上げてリョーマは微かに笑う。
淋しい気持ちを押し隠して。最後に悲しい顔など見せたくはなかった、決して。思い出すのはいつだって笑顔でいい。
けれど何よりも雄弁にモノを語る黒い双眸が、その決意と裏腹に悲しい光を宿しているのを、灰橙色の風景の中で手塚は見た。
それでも必死に其れを押し隠そうとするのか彼は綺麗に笑った。



「お誕生日おめでとう」



遅くなっちゃったけど、でも一番サイゴに言いたかったから。そう悪戯そうに笑う。
アナタが思い出す祝福の言葉はいつだってオレであるように。いつだって想い出す顔は自分であるように。


「…ありがとう、リョーマ。何より、嬉しいプレゼントだな」


沢山貰ったプレゼントよりも、今まで誰に言われた言葉よりも、今のお前からの祝いの言葉が何よりも嬉しい、と真っ直ぐに告げる手塚にリョーマははにかんだように目元を弛めると無邪気な表情でくすん、と笑う。そんなの、アタリマエでしょ?
そして黒々と光る双眸を長い睫毛で覆いながら、重そうに二、三度まばたきを繰り返した後、ひたりと手塚の目を見据えて独白するように呟く。

まだ、鐘の音はやまない。


「…アンタはすぐオレの隣に戻ってくる、って。そして、ずっと、いっしょに歩いていくんだ、…って。ずっと、そう、信じてるから」


哀しみを振り飛ばす力強い瞳で、だから、だからコレが最後だ、とただ笑った。別れるのは此れで最後。
カンカンとずっと鳴り響いたままの鐘の音が夕闇を裂いて大きく迫る。ごうごうと騒音を立てながら腹をてからせた列車が通り過ぎた。
重なるように響きあう二つの轟音にかき消されることのないよう、叫んだ。


「約束、して!次に会うときは、約束を交わしたあの場所だ、って…っ」


鐘の音が止む。しんと静まりかえった闇が逆に耳を痛ませるほど。

痛いほどの静寂の中で、手塚は確かに頷いた。あぁ、約束、しよう。次に逢うときは約束を交わしたあの場所で。そしてそれは、決して、もう二度と離れることのないときだ、と。
其れをリョーマは確かに見届けてから満足そうに笑みを一つ零すと、手塚に背を向けて勢いよく駆け出した。
大きな通りへと繋がる小さな踏切の向こうでくるりと振り向いて別れの挨拶をおくる。
再び鳴り出した鐘の音に阻まれながらも、いってきます、と笑いながら叫んで。そして綺麗に小さな体を翻させて駆けていった。



「…イッテラッシャイ」


どんどん闇に呑み込まれていく小さな肢体を途切れることなく見送って、小さく呟く。
轟音を立てた長い列車が再び訪れ、其れが過ぎた頃には、小さな後姿はもうどこにも見えなかった。
彼は結局一度も振り返ることのなかった。けれどそれで十分だ。
手塚は満足そうな笑みを微かに浮かべてから、自分が今いるべき場所へと踵を返す。
そして彼が消えていった通りに背を向けながら力強い一歩を踏み出して、想った。
これは確かに一歩なのだ、と。
彼との別れではない、前に進むべき一歩。彼と永遠に笑い合う近い未来へとつながる、確かな。




いつだって、歩むのは君の隣。

病めるときも健やかなるときも雨が降っても雪になってもずっと変わらず。





そして、艶やかな表情で行ってきます、と日常へと戻っていったリョーマの姿を強く想った。









2004/10/09







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