月明かりに照らされて緑が静かに萌える中、手を取り合って歩く








側に居るよ。






暗い森の中、月明かりだけを頼りに、リョーマは一人で歩いていた。
辺りに人気は全く無く、まるで自分一人がこの世界に居るように錯覚してしまいそうなほど。けれど寂しいという気持ちよりも、逆に静かな時間の中一人きりで過ごせることにどこか安堵を感じる。まるで、五月蝿いほど自分を構おうとする周囲への反動であるかのような。

長かったようで、あっという間に過ぎていった合宿も今日で終わる。明日からは見慣れた日常へと戻る。少しだけ淋しいように感じるのは気の所為か。短い期間ながらも、確かな手ごたえを伴なって今だ熱を訴える掌を握り締める。まだ見ぬ強大な敵へ対抗できる力を得たと、確かに感じられたこの合宿は非常に実りのあるものだったと言えた。
近いうちに対峙するはずの相手を想像し、武者震いのような高揚感が背筋を上ったが、まだ早いと押し殺して静かに歩みを進めた。



「オイ。こんな夜更けに一人っきりで、どこへ行くんだ?」
「…ケイ、ゴ?」


突然背後から掛けられた聞き覚えのある、甘くからかうような声に振り向けば、さっき別れたはずの恋人の姿があって目を見張る。
確かに氷帝の人たちとバスで去っていくのを見送ったはずの彼が、気配も無く近づいてきたのか、わずか数歩離れた後ろに立っているのを、驚きとともに見る。
どうして此処にいるのかとでも言いたげな不可解なリョーマの視線を感じて、跡部はふと笑みを洩らす。本当に彼の黒い瞳はその口よりも雄弁にものを語る。
跡部は口元に笑みを浮かべながら大股で近づき、手を伸ばせば触れられる距離で止まった。

「お前に会いに来たに決まってんだろ、リョーマ」

尊大とも呼べる態度で当然だと言わんばかりの跡部は、いつもと変わらなくて、偉そうな其れに、いつもなら反感がむくむくと沸き起こり、可愛くない口を聞くのだが。
いつもとは違う場所だからだろうか。非日常の中で、跡部の轟然とした佇まいも月明かりに照らされると柔らかい笑みを誘うものでしかなかった。

滅多に見せることのない優しい笑みを微かに口元に乗せて此方を見つめるリョーマは、薄暗い緑に柔らかい月光が反射されて、どこか可憐に浮かびあがる。
その甘い姿に、自分らしくもなく、まるで純な少年のように胸を高鳴らせるのを感じ小さく舌打しながら、さらに歩みを進めて隣に並んだ。
今だ面白そうに此方を眺める彼の小さな左手を、徐に自分の手の中へと攫い、そのまま前を見て歩き出す。リョーマは突然の跡部の行動に目を見張ったが、何も言わずに、大人しく跡部に少し遅れるように足を進めた。







虫が草むらで騒ぐ音だけが周囲を包む中、互いの温もりが微かに、緩く繋がれた手から伝わってくる。互いの存在だけを感じながら歩みを進めていくと小さく流れる川のほとりに出た。
其れはリョーマが大和と少しの間だけ共に過ごした川辺。其の時の事をを思い返しながら、静かに流れる清水を眺める。ほんの先日のことなのに照らす光が違う所為か、今目の前に広がる光景はどこか幻想めいて見えた。もっとも、違うように映るのは、隣に並ぶ男の所為かもしれなかったが。まさか一緒にこの川を眺めることになるとは、と横目でちらりと跡部を見上げると、ばちりと視線が交差した。
互いの考えを探るような二つの眼差しが静かに宙で交わる。



リョーマは物思いに耽っていた所為で気づかなかったが、跡部は彼の幼い横顔をずっと眺めていた。どこか前とは雰囲気の違う彼の綺麗な輪郭を確かめるように。小さな恋人の姿は、孵化しようと足掻く時期特有の危うくも綺麗な其れで、感じていた不安が胸の中でぶわりと広がる。



リョーマと試合をした。たぶん、今までに無いほどに真剣なプレイを。



其の結果として杞憂にしか過ぎないと思ったものが確かに自分の目の前に曝されてしまったようでならなかった。其のことが今夜リョーマを訪ねる契機となったのかもしれないとおぼろげに考える。合宿での青学との手合わせは、手塚の頼みもあってのことだと周囲には告げたが、本当は自分の杞憂を晴らそうとするものだったのかもしれない。所詮、手塚とのことは体の良い言い訳にしか過ぎず。自分の目をも眩まそうとするかの其れが、結局のところは繕った体裁でしかないことを、本当は心の奥底で、ちゃんと分かっていたのかもしれない。

自分達が望んでいたような姿を、自分との試合の中でリョーマは見せてくれた。果てない可能性を感じさせるテニスを。そのプレイを自分達の目に強く焼き付けた。いずれは手塚を超えるだろうという強烈な確信とともに、実に見事な試合を。小さな彼の、秘めた未知なる力は賞賛に耐えうるもので。

けれど、裏腹に襲い繰るのは自分らしくもない焦燥めいたもの。
微かに。はっきりと。其れは遠巻きにじわじわと纏わりつく。


 ――まだ、彼は自分の手の届く場所に居るのだろうか。


弱い心は自分が最も忌むべきもので、全てにおいて排除を志し、それは今まで実現できてきたはずだった。けれど、この小さな恋人のことになると、其れはゆらりと鎌首をもたげようとする。
頂点に立つ者には決して在ってはならない感情が、ゆらりと心に忍び込んで、ふとした瞬間に襲い来る。思わず目を背けたくなるような、決して認めたくはない不安が。確かに自分の中に在る。きりきりと心臓を締め上げる消えない何かが。




急に左手に痛みを覚え、リョーマは微かに眉をしかめた。跡部の大きな手に、ギリと握りしめられた自分の手が、其の握力に痛みを訴えていた。文句を言おうと、水面から視線を外して跡部を見やったが、彼の何処か追いつめられたような双眸に口を噤んだ。まるで逃がさないとでもいうような、跡部の暗い蒼。


リョーマは暫くそのまま、鈍い光を浮かべる跡部の瞳の奥を覗き込むように見上げていたが、何の抵抗もなく握られていただけ自分の手をふいに、もぞりと小さく動かした。
その微かな動きに、リョーマが自分から離れたいと思ったのか、跡部が剣呑な表情を端整な顔に浮かべる。その顔を見上げて、リョーマはにやりと笑った。
そして跡部の大きな掌の中から飛び出ないように気をつけながら、ただくるりと自分の手を裏返す。そのまま跡部の手を握り返した。

リョーマは何も言わずに前を向きなおると、さらさらと月の光を反映する水の流れをただ眺める。ほっと抜くように息を吐いた跡部の気配を感じて、更に小さく手に力を入れて握りしめた。跡部の手が微かに痛みを訴えるくらいには確かな力を。流石にテニス選手の握力は馬鹿に出来ないと思わせるくらいに。何バカなことを考えてんの、とでも言いたげな其れに跡部は自然と頬が緩むのを感じ、並ぶ恋人に習うように流れに目をやった。



跡部の視線が自分から外れたのを感じつつ、リョーマは小さく溜め息を吐く。普段、ムカツク位に尊大なこの男が、時おり下らない事を考えていることは気づいていた。何か言葉を与えてそれで安心するというなら、それほど容易いことだというのなら。幾らでも、とでまではいかないだろうが、一応恋人として自分だって甘い言葉の一つや二つかけることくらい出来る。
けれど。自分たちはそんな甘いもので繋がっているわけではなくて。
たぶん、互いにそんな関係を望んでいるわけではないから。

先ほど、此方を見つめる跡部の瞳に浮かんだ切ない色は、時おり彼が下らない考えをしているときに必ず見せるもの。
でも、そんなもの浮かべる跡部の姿など、見たくもなかった。
彼の不遜とも呼べる綺麗な蒼に其れは決して似合わないのだから。

「…アンタと試合できて、よかったよ」

ぽつりと呟かれた台詞は流れる音に吸い込まれそうで、けれど確かに甘く柔らかい響きで跡部の耳に届く。

「今度は絶対、オレが勝つからね?」

覚悟しといてよ、と強気に嘯く小さな姿は、見慣れたいつもの彼。煌めく黒曜石のような双眸で此方を射抜く鮮やかな姿は胸の柔らかい部分を確かに引っ掻くようで。自然と甘い笑みが浮かぶ。

「あぁ、楽しみにしてるぜ?まあ、いつになるのか分からねぇ、気の遠い話だがな」
「はぁ?何言ってんの?負けそうになってたクセに」
「アァ?俺様の華麗なる破滅への輪舞曲で泣きベソかいてたのは、いったい何処のどいつだ」
「泣いてなんかないじゃん!バカケーゴ」

静かな森の中で二人きりという雰囲気たっぷりのシチュエーションにも関わらず、二人は下らない口喧嘩を始める。けれど水面に映る二つの手は決して離れようもないくらいに強く結ばれていた。繋がった箇所から感じる自分とは異なる体温と微かに動く指の動きがどこか心地よく、解けない。



際限なく続くかと思われた雑言も、互いの口からあらかた出尽くされたのか、ぱたりと止み、再び虫の声しかしなくなる。主張するように響き渡るそれらに自分達の状況をやっと思い出して顔を見合わせた。昼間のような五月蝿い邪魔者も居ない、二人きりの状況だというのに不毛なことをしていた、と途端に認識して、視線を絡ませて笑い合う。

「本当、バッカみたい」
「あぁ。せっかく邪魔な奴らがいないっていうのにな」


可愛らしい笑みを浮かべる小さな恋人の姿に、気づかれることのないよう、跡部は心の中だけで安堵をもらす。


―――まだ、この手の中に居る。





繋いだ其処から伝わる温もりを確かめる。
自分の隣から居なくならないよう、祈るともない願いを込めて。
何かが壊れることのないように。強く、きつく。
小さな恋人の小さな手を握りなおして、ただ、祈った。






決して離れることなどないように。




2004/08/24





⇒『おまけ』








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